15年ぶりに訪れた奄美・加計呂麻は、道路はよくなり、ヤンゴは変わり、島民人口はさらに減りと、それなりに変貌してはいたものの、浦々の佇まいや静かな内海の波のたゆたいなどは変わらないまま健在でした。
 いいところだなあ、奄美。

 しかし今回は天候に恵まれず、喜界島への初めての渡島は阻まれ、晴れた日は5月4日の1日だけで、あとは曇天や雨だったのが残念。そのわりに気温が高く、湿度に至ってはかなりきつい状況でした。
 でもまあ、ヒカゲヘゴが旺盛に茂っているところなどを見れば、奄美の気候ってこんなものなのかもしれませんが。

 前回と今回で奄美・加計呂麻の集落はかなり回ったつもり。一方で、奄美諸島で見残しているところは、喜界島、請島、与路島の有人離島3島がまだとなっています。これらを巡る機会は今後やってくることがあるのだろうか。
 15年前にも再訪することなどあるのだろうかと密かに思っていたわけで、きっと行きたい行きたいと念じていれば、その機会はやってくるものだと信じたい。

 奄美諸島は空路的にはJAL系列がカバーしていて、ANA愛好者はなかなか近づけないうらみがあります。今回もフライト代が高くつき、ANAの株主優待で沖縄に飛ぶよりも軽く倍以上のコストがかかりました。このことさえクリアできれば、「オカダーっ!! いいか、奄美も、喜界島も、遠いぞっ!」(by棚橋弘至)ということはなくなるのでしょうけどねぇ。

 2016年のGW、積み残しはありましたが、とてもいい旅をしてきました。
 これにて旅の記録「奄美・加計呂麻へ、再び」を終了します。読んでいただきありがとうございました。


(画像は、加計呂麻島西阿室集落の周辺マップです。加計呂麻島の各集落の中心部にはこのような看板があったので、とても重宝しました。)
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 鹿児島空港では、JAL系からANA系に乗り換え。いったん到着ロビーに出て荷物を預け、時間があったので、お土産屋を物色してみました。
 まっすぐ単身赴任先のアパートに帰るので、たいそうなお土産はいりません。なにか記念になるちょっとしたものをと考え、さつま揚げの小詰め合わせを買うことにしました。

 さつま揚げ売り場が至る所にあった中で、たまたま試食に捕まった「日高水産加工」(いちき串木野市)の小さな詰め合わせを648円で買いました。
 試食してみて、これって黒砂糖がたっぷりと入っているんじゃないの?と感じるぐらい甘い、インパクトのある味のものでした。

 中身は3種。さっぱりとした甘さが自慢のさつま揚げの原型「とうふ入りさつま揚げ」、手造りつけ揚げと同じ白身の魚を使ったさっぱりしたおいしさの「棒天」、カルシウムたっぷりで栄養価の高い「いわしのさつま揚げ」。

 入っていたしおりには、「串木野港沖合、東シナ海に浮かぶ甑島列島近海は、豊かな海の幸の宝庫。そこから獲りたての魚肉(エソ、イワシ、アジ、サバ)を材料に手造りで生まれた「さつま揚げ」の味は天下一品。ぜひご賞味ください。」と書かれていました。

 帰宅して、さっそくチューハイのお供につまんだのは、言うまでもありません。自分への小さなお土産だったけど、酒のアテ、ご飯のおかずと3回楽しむことができました。


 奄美大島から飛行機を乗り継いで、18時半には羽田まで戻ってきました。庄内空港着は21時を過ぎるので、ここで夕食をとりましょう。空港内のレストランは高いわりに内容が伴わず、店員の客あしらいもよくないので極力避けているのだけど、こういう状況ではやむを得ません。

 何でもある東京で食べるのだから、できれば地元では食べられないエスニック系がよろしかろうと考え、「UPPER DECK TOKYO」っていうの? 第2旅客ターミナル3階に行ってみたところ。
 しかしそこにあるベトナム料理やトルコ料理の店を覗いてみたものの、コスパと内容からどうも食指がそそられず、結局そのいちばん奥にあった韓国料理店「Miss Korea」に落ち着きました。

 声をかけているのにこちらを見ようともしない男性店員がいたのには驚かされましたが(商売人とは思えないこういう輩は都会だからこそ通用する。)、若い女性店員はコンフォータプルだったので、入ってやったぞコノヤロ。

 ビビンバ、定食、チゲなどの鍋類、粥類などのメニューから、比較的オーソドックスなプルコギ定食1,200円をチョイス。だから高いってば。前金制というのもなんだかなぁ、デアル。
 店の奥の2~3人掛けられるカウンター席が空いていたのでそこに客席して、運ばれてくるのを待ちました。

 しかしなんだな、癪だが旨い。熱々の鉄板で運ばれてきた肉の量もしっかりしているではないか。タマネギやキャベツとカルビ肉の相性、バランスもいい。
 キムチたっぷりだし、わかめスープもうまい。
 あぁ、マシソヨー。いいぞいいぞとご飯とともにパクつきます。バーガーショップのように調味料が置かれているコーナーからコチュジャンを持ってきて焼肉にどばりとかけて食べればなお旨し。

 味も量も納得。オープンスペースだというのが少々気になるところではあるけれど、ひょっとしてこの店、羽田空港内としては当たりのほうなんじゃないか。これなら東京の普通の店で食べたって1,000円はするでしょう。

 というわけで、男性店員以外はマルだった、ということにしましょう。


 おいしい鶏飯を食べ終わって11時半。空港近くの節田(せった)集落まで来て正午になりましたが、14時半のフライトまでまだ間があるので、15年ぶりに「奄美パーク」に入ってみることにしました。

 ここは奄美大島に来たならば一度は訪れたいテーマパークで、奄美の自然、歴史、文化を映像や展示などで楽しく学べる「奄美の郷」と、奄美の自然に魅了された不遇の天才画家・田中一村の数々の傑作を展示する「田中一村記念美術館」が二枚看板となります。

 ちなみに、15年前に訪れたときに書いておいた奄美パークのインプレは、次のとおりです。

 旧空港跡地に建設されたばかりの奄美パークは、堂々とした出で立ち。
 「奄美の郷」は見応え十分。入るとすぐのところに広いステージがあって、正面のマルチビジョンでは奄美の若き唄者、中村瑞希が大写しになって島唄を披露しています。その周辺には奄美諸島の5つの島(喜界島、奄美大島、徳之島、沖永良部島、与論島)を個別に紹介するブースがあるので、これを見れば各島の個性を垣間見ることができます。
 総合展示ホール(有料)は圧巻で、壁一面の昔の写真パネル、加計呂麻の諸鈍シバヤをはじめとした民俗行事のジオラマ、島唄をゆっくり聴くことができる装置、かつての住居の軒先の様子を再現したセットなどがありました。もう、一つ一つ見ていたら時間がいくらあっても足りません。
 「田中一村…」のほうは、展示室が3つに分かれた立派な美術館。もともと寡作の芸術家なので展示数は多くないけれど、鳥肌が立つような作品があります。日本のゴーギャンともいわれる彼の人生についてもよく知ることができます。出口の売店で伝記の文庫本をゲット。
 ここはお勧め。奄美が初めての人なら、空港に降り立ったらここで奄美ってどういうところなのかをまず感じてみるってのがいいんじゃないかな。

 入場料620円を払って入った館内の状況は、15年経った現在もほぼそのまま。中村瑞希の映像が替えられていたのはちょっぴり残念ですが、15年間そのまま使うなんてことはないので、やむをえません。
 館内のコンパニオンの仕草やホスピタリティもほぼ変わりなく安心感がありますが、その一方で、代替わりがしてもずっと同じことをやっているんだなーと感心したりもします。(笑)
 展示品もほぼ変わっていませんが、そもそも気合いの入ったものばかりなので、再度見ても退屈するようなことは全くありません。むしろ、懐かしさがこみ上げてくるような印象です。

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 美術館は、作品の入れ替えを年4回行いながら80数点ずつ常設展示しているとのこと。
 ですが、圧巻なのはやはり「初夏の海に赤翡翠(アカショウビン)」と「アダンの海辺」。田中一村のような筆致はともすると原色系の色に負けて平板に見えてしまうことがあるのですが、これらの作品にはなにか鬼気迫るような迫力を感じます。
 企画展示室では「琉球弧の祈り~前畑省三「神女誕生」シリーズから~」という展示も行われており、平瀬マンカイやパーントゥなどをテーマにした力作が並んでいました。どろどろとしたアバンギャルドな作品に見とれていると、作者の関係者と思しき女性に話しかけられ、時間に余裕があるのをいいことについ長話をしてしまいました。

 あとはレンタカーに2度目の給油をし、営業所に車を返却して、送迎車で空港へ。
 往路と異なり、復路は定刻どおり奄美空港を離陸して、順調な帰路となりました。
 奄美大島よサヨウナラ。3度目があるといいのだけどな。


 旅の最終日の昼は、奄美の最後の思い出としてやはり鶏飯で締めようと思う。
 空港に向かう途中のちょうどいいところに、「みなとや」と双璧をなす名店「ひさ倉」があるので、そこで食べることにしました。

 R58を走り、龍郷町役場前を過ぎて1kmちょっと先に行った左手やや奥まったところに店があります。ここも15年前と違って店が新しくなっています。席数130超の無休の店。
 開店時刻の11時過ぎに入店して、けいはん1,000円を。

 先に行った「みなとや」は家族経営っぽい仕事ぶりでしたが、こちらはそれよりもずっとオペレーションが洗練されていて、たいした待ち時間もなくスムーズに配膳されました。

 具は、細裂きの鶏肉、錦糸卵、刻みネギに分葱、刻み漬物、刻み海苔、味付けシイタケ、柑橘類乾燥粉末、紅ショウガ。具の種類及び量は「みなとや」を凌いでいるかもしれません。
 よろしければご飯と鶏スープはお代わりができますとの嬉しいサービスだけど、そんなには食べられない。

 鶏スープはたっぷりあり、多めにかければきりりと熱く、食べ進めるうちに額に汗が滲んできます。それが鶏飯を食べる楽しみなのでしょう。非常においしく、「みなとや」と比較してスープの甲乙はつけられません。どちらも大満足です。これで安んじて奄美大島を離れることができそうです。(笑)

 またもやおいしく4膳。ここのシマウタも女性ボーカル。おおらかな声出しをするカサン(笠利)系だったでしょうか。


 10時を過ぎるまで奄美博物館と奄美文化センター付近に滞留していましたが、ぼちぼち名瀬を離れて奄美空港を目指すべき時間になりました。
 名瀬の中心部から和光バイパスの新しいトンネルを抜けて、田中一村の家があった名瀬有屋を通過し、浦上という地名のところから本茶バイパスを離れて旧58号へと入っていきました。目的地は「本茶(ふんちゃ)峠の碑」です。

 くねくねとした登り道を進んでいきます。本茶トンネルが開通する1986年までは現役の国道だったようですが、きっとここはかなりの難所だったのだろうな。
 その道を峠のてっぺんまで進んで少し龍郷側に下がったあたり、道路脇の小高いところに、小学校の黒板のような深緑色をした看板に白墨で書いたような字の「ご案内」がありました。

ご案内
 この碑は戦後奄美が生んだ名曲「本茶峠」が永遠に人々に愛唱されあわせてこの唄の
  作詞者 重原源隆先生と
  作曲者 村田實夫先生の
功績がいつまでも記憶されんことを願って昭和52年10月9日に建立されました。
 特に村田實夫先生は「本茶峠」をはじめ「夜明け舟」「農村小唄」など数々の名曲を作曲され、戦後間もない私たちの心にどれほど明るい勇気そして希望を与えてくれたか知れません。
  昭和61年3月21日
   奄美新民謡同好会代表  豊 基

 「奄美新民謡同好会」がつくった「ご案内」だというのが、島唄ファンを泣かせます。
 豊基さんについてはよくわかりませんでしたが、氏の作品には「新宇検音頭」、「パナウル音頭」などがあるということです。

 愛読しているセントラル楽器の指宿良彦のブログ「ふっちゅねせ」にも、本茶峠の碑についての記事があり、それには次のようなことが記されていましたので、引用しておきます。

 昭和23年に作られたこの曲は、米軍支配下の奄美にあっても、心だけは自由に空想の世界を飛びまわれるのだという開放感を私たちに与えてくれました。
 作詞の重原源隆(しげはらげんりゅう)先生も、作曲の村田実夫(じつお)兄もすでに、故人となっていましたが、前年(注:1976年)、豊基(ゆたかもとい)さん(当時名瀬市役所に勤務)を中心とした名瀬音楽協会の有志で村田実夫追悼コンサートを行った後、彼らの功績を讃える「本茶峠の碑」を建立しようと決定しました。そして、みんなで集めた40万円を頼りにスコップ、ツルハシ、鎌などを使って整地作業を始めました。用地は、龍郷町が無償提供してくれました――。

 いい話ですねえ。碑はこうしてつくられたのですね。
 でもって、碑の本体はご覧のとおり堂々としたものです。
 碑の礎石部分には「ふんちゃ峠」の歌詞が4番まで記されていました。

ふんちゃ峠
 重原源隆 作詞   村田實夫 作曲
 一 ふんちゃ峠を 東に越えりゃ   描かれたような 喜界が島が
     波路遙かに 彼方に浮ぶ   夢の国かや 喜界が島は
 二 昔、昔の その大昔   桃太郎さんが 犬、猿、雉子を
     ともに従え 鬼征伐と   渡った島に よく似たような
 三 又、一つには 僧俊寛が   迎えの船に とり残されて
     都の空を 恋いこがれたる   哀れ語りの 鬼界が島
 四 歴史は変り 幾世はめぐり   ジャガタラ舟も 異人も来るに
     女護が島とは 誰が言い初めた   今ぢゃその名も 喜びの島

 「本茶峠」が歌詞に出てくるのは1番だけで、もっぱら喜界島のことがうたわれているのですね。
 このうたの曲調は、ズバリ「昭和のムード歌謡」でしょうか。昭和23年だもんなあ。

 碑の後ろ側には「本茶峠」の五線譜が彫り込まれていました。指宿良彦サンが書いているとおり、こちらには「名瀬音楽協会建立」のクレジットが刻まれていました。五線譜です。奄美の民謡関係者がやることは凝っていますね。(笑)

 ここから峠を龍郷方面に降りていくと、約400本と言われる緋寒桜の並木がずっと続きます。1~2月の桜の花が咲く時期にはさぞかし見事なことでしょう。所々にベンチが設えられていて、鑑賞する環境も整っているようでした。


 奄美文化センターのエントランスの手前に、大きな石を2つ使った比較的新しい石碑が建っていたので、それも見てみます。
 奄美群島日本復帰50周年記念式典の際に、天皇皇后両陛下が詠まれた短歌を記した碑でした。
 次のように刻されていました。

  御製      復帰より 50年経るを 祝いたる 式典に響く 島唄の声
  皇后陛下御歌  紫の 横雲なびき 群島に 新しき朝 今し明けゆく

 その右下にある石には、次のように記されていました。

 天皇皇后両陛下におかれましては、平成15年11月15日から17日の間、奄美群島日本復帰50周年記念式典(同年11月16日奄美振興会館にて開催)御臨席及び地方事情御視察のため、奄美大島を御訪問になられました。
 本御製及び御歌は、その際にお詠みになられたもので、この感動を末永く後世に伝えるため、記念碑を建立します。
  平成16年3月
   奄美群島日本復帰50周年記念事業実行委員会委員長
    鹿児島県知事 須賀龍郎

 文中、奄美振興会館とは、ここ奄美文化センターのいわば「本名」のようです。
 自分がここを初めて訪れたのは2001年(平成13年)ですから、その時は2004年に建てられたこの碑はまだなかったということになります。

 天皇陛下が地方をご視察されるときには歌を詠まれるのが一般的のようです。今年全国豊かな海づくり大会が山形県で開かれますが、その際に詠まれた歌についても記念碑として残すことになるのでしょう。


 展示物を1時間弱眺めて外に出ると、おお、ほとんど雨が上がっている! よっしゃあ!ってな感じです。
 館長さん(?)から「外の奄美の民家も見ていってください」と言われたので、奄美文化センター前の一角にあるそれを眺めてみます。加計呂麻の管鈍(くだどん。行きましたね)の民家を移設したものなのだそう。
 見ていると、その奥、センターの建物寄りに銅像が立っています。今の自分はそちらのほうに好奇心が向いているので、早々にそちらを見に行ったところ。

 それは「大津鐡治氏之像」というものでした。
 礎石の側面にある銅板の刻された文章を移しておきます。

 大津鐡治氏(1914~1989)は、父・大津定吉、母・モトチヨの長男として名瀬市に生まれ、大島中学校、第七高等学校を経て、昭和15年3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年旧満州国に奉職、昭和19年3月兵役。
 戦後はシベリアでの抑留生活の後、昭和25年6月復員。同年7月末、米軍政下の臨時北部南西諸島政庁に勤務され、奄美群島政府副知事をはじめとする数々の要職を勤め、奄美の祖国復帰にも尽力された。
 特に、昭和33年に43歳の若さで名瀬市長に当選、爾来7期28年間にわたり復帰後の荒廃した郷土名瀬市はもとより、奄美群島にも不朽の足跡を残された。
 これらの功績により、昭和62年4月勲三等旭日中授章(地方自治功労)の栄誉に叙されたのをはじめ、数々の表彰を受けられ、名瀬市においては平成2年3月、名誉市民に推戴された。
 ここに全国有志相はかり、大津鐡治氏の誠実、重厚な人格と深い郷土愛に基づく偉大なる業績をたたえ、氏が市長在任中心血を注いで建設された奄美文化センターの構内に銅像を建立する。
  平成4年5月14日
  大津鐡治氏銅像建立委員会
    会長 名瀬市長 成田廣男
    題字 山下為吉 書

 名瀬市長を7期もやった名誉市民なのですね。奄美の偉人はいずれも祖国復帰運動に尽力しています。
 ちなみに、奄美文化センターは、昭和62年(1987)3月竣工。上記の記述からすれば大津氏の市長在任期間は1958~1986年ですから、退任直後に完成したということになります。


 5月7日、旅の5日目であり、最終日です。
 雷の音で、7時に覚醒。あれれ。カーテンを開けて外を見れば、大雨じゃんか。テレビのニュースでは大雨警報が出ていると言っている。うーむ、コマッタ。
 しょうがないのでしばらく部屋でぐずぐずと過ごし、9時から開くという「奄美市立奄美博物館」に行くことにしました。
 9時にホテルを出る頃には雨の激しさもかなり収まってきたのはラッキー。

 奄美博物館は15年前にも訪問しています。
 当時の覚え書きを見ると、「隣接する奄美文化センターでは市民文化祭の開会式が執り行われていた。小学生の演奏を座り込んで眺めている作業服姿のオジイと目が合い、あいさつ。何とはなしにいっしょに見ていたけど、いざ博物館に入ろうとするとこの人は博物館の職員の方(もしかすると館長?)だった。山形から来たと伝えると、「ほぉ~、それはまたずいぶんと遠くから…」と驚いていた。」、また、「展示物は、奇をてらったようなものはなく、陳腐さも感じられず、質実剛健でたいへんgood。特に、遺跡にみるあこや貝を中心とした企画展示は見応えがあり、つい時間がかかってしまった。」と記していました。

 1階は、島尾敏雄、海、ヤコウガイがテーマ。したがって上記の「あこや貝」は明らかに誤りです。伝統的小型船の実物を中央に、名瀬で20年暮らした島尾敏雄と家族の足跡、小湊フワガネク遺跡群のヤコウガイの世界など。入口の窓口にいた館長さん(?)から、奄美にしかいないというイシカワガエルが水槽にいるのでこれを見よと熱心に勧められました。
 2階は、暮らしと歴史がテーマ。琉球王国統治時代のノロ祭祀の関係資料や、奄美群島の祖国復帰運動関係の資料などが多数展示されていました。
 3階は、東洋のガラパゴスと言われる奄美大島の自然に生息する動植物の標本多数。これらは15年前とほぼ同じようで、古さを感じずにはいられなかったかな。

 2階に上がって、「写真を撮ってもかまいませんよ~」ということだったので、吹き抜けに展示されている舟の様子をパチリ。
 舟はクバヤといい、イタツケ舟を大きくしたもので、大舟(ウフブネ)、八尋舟(ヤヒロブネ)とも呼ばれ、20人以上が乗れるので、遠洋航海や物資の運搬に役立ったそうです。

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 また、シマウタに関して、カサン系の代表歌が「行きゅんにゃ加那」「長雲節」「よいすら節」「朝花節」などで、一方のヒギャ系は「いそ加那節」「嘉徳なべ加那節」「むちゃ加那節」などがある、ということが図示されていました。
 それから、1609年の琉球王国の征服から1871年の廃藩置県に至るまで、薩摩藩は仮屋(代官所)を笠利⇒大熊⇒赤木名⇒大熊⇒赤木名⇒名瀬伊津部へと移していたことを知りました。

 階段の踊り場などに収蔵物らしきものが無造作に積んだままになっているのでいったいどうしたのだろうと思ったら、これらは2010年10月に発生した「奄美豪雨」の際に冠水した住用公民館の収蔵資料が一時的に保管されていたものなのでした。
 ははあ、そういうことなのか。あれから5年以上経っても修復しきれていないのですね。役所のカウンターの下まで泥水が上がって、職員が呆然としている写真を見た記憶がありますが、すごいインパクトがあったものでした。

 その写真がコレ。
 保管していた画像の中にたまたま残っていました。

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 旅の4日目の夜はまたもや名瀬泊。いったんホテルにチェックインして一息入れて夜をどうするか考える。居酒屋もいいけれど、今夜は久々に麺類を食べたくなったな。
 そう思い、スマホで付近のラーメン店を調べ、18時半頃に名瀬入舟町のホテルから小雨が降りだした中をてくてくと、県道79号を名瀬塩浜町方面へと少し北上して、「麺屋くろべえ」に行ってみました。

 

 座敷の席について、まずは瓶ビールと餃子550+350円を頼んで一服。
 この店のオネーサンは若くてなかなかの美人なのだけど、餃子が焼けないうちはビールを持ってきてくれないのでちょっぴり困った。
 で、餃子とビールが同時にサーヴされた段階で、ようやくぼくの寛ぎタイムが始まりました。

 500mlの中瓶など餃子とともにあっという間にやっつけてしまい、次は麺だ。
 とんこつの「くろべえ」「しろべえ」「あかべえ」、「くろ海鮮麺」などのメニューの中からこの店の最高額商品の一つである「くろ坦々麺」850円をチョイス。

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 おおっ、これって坦々麺なのか?!
 スープは、豆板醤などは使わずラー油中心。したがって坦々麺特有のとろみはありません。また、黒白の胡麻は擂らずにそのままパラパラと入っています。
 挽肉は使われず、チャーシューを賽の目状に小さく切ったものがたっぷり。なのですが、これが食べるうちに底のほうに沈んでしまい、最後にレンゲで掬って食べることになってしまいます。
 ネギは、長ネギの根っこの硬いところをザク切りにしてラー油で炒めてある模様。

 麺は、西日本特有と思われる短めのものですが、太さがしっかりしていて細麺の範疇には入れられないもの。
 意図的な創作なのか、こういうラーメン麺って初めてめぐり会いました。
 それなりにおいしいですが、これを坦々麺と名乗っていいものかどうか。
 でもまあ、奄美のラーメン、初めて食べたけど、それなりに楽しかったな。

 雨のそぼ降る中をホテル近くまで戻り、ちょっくらコンビニに寄ったところその間にどしゃ降りに。
 しばらくコンビニでビバーク(?)して、20分後ぐらいに走ってホテルへ。
 ああ、濡れた濡れた。あとは部屋で少し飲んで、今夜は終わりだな。



 フェリーの発時間の30分前までには無事生間の港に到着。30分前には来てねとの事前情報だけど、窓口は開いていないし、他の客もほぼ誰も来ていません。まあ、南国とはそういうところと知っているので何とも思いませんが。

 約7時間にわたって細い道をアップダウンし続け、ほぼ加計呂麻島を一周した形になります。
 手元にある資料には加計呂麻島には現時点で人の住んでいる集落は全部で30あるとの記載がありますが、このうち今回車から降りて歩いて見た集落は21、車から見るにとどめて通過した集落が7。まったく寄らなかったのは安脚場(あんきゃば)と知之浦(ちのうら)の2集落のみでした。
 安脚場は15年前にじっくり見ているので、未踏の集落は小さな半島のどんづまりにある知之浦のみとなりました。わが酔狂さに自分自身ホレボレします。(笑)
 静かに暮らしている島の集落の皆さん、どうもお騒がせしました。いい経験をさせていただきました。

 フェリーは20分ほどで古仁屋に着き、これから名瀬まで戻ります。
 加計呂麻島から戻った古仁屋は、港が大きく商店街もあって、すごい大都会のように思えます。一晩泊まって愛着も湧いてきた街なので、少しの間車で流して街の記憶を心に植え付けます。
 古仁屋郵便局前の交差点は、何度も通ったし、郵便局の建物はこの街のランドマークなので、写真を撮っておきましょう。
 ガソリンが尽きてきたので、古仁屋郵便局の南にあるGSで満タン給油。時計は16時35分。ここが鹿児島県側の起点となっているゴッパチを北方面に取って返すことにします。
 加計呂麻の天気は雲が多くてイマイチだったけど、雨には降られずに済んだので、まあよしとしようではないか。


 フネに乗るまで残された時間が少ないので、瀬相から、呑之浦(のみのうら、4世帯5人)、押角(おしかく、25世帯41人)、勝能(かちゆき、66世帯81人)を通過して、諸数(しょかず)へ。もうここまで来れば生間はすぐそこです。

 諸数は、100年に一人のウタシャと言われた武下和平(たけしたかずひら)の出身地なので、ぜひ立ち寄りたかったところでした。
 自分にとっては武下和平こそが、奄美のシマウタの凄さを知らしめてくれた人物で、コブシの効いた唱法と三線の小刻みなバチさばきが特徴とされる東(ひぎゃ)唄の正統派を継承する者とされています。
 武下和平を初めて聴いたのは、2001年。今思えばすごい番組があったものだと感心しますが、NHK・BSテレビで「琉球の魂を唄う」という番組に、沖縄の登川誠仁、宮古の国吉源次、八重山の山里勇吉とともに琉球弧の4大巨匠として武下が登場していたのでした。
 そのときの武下は、裏声を駆使し、メリハリをつけて情感たっぷりにうたっており、ひたすら感動しながら聴いたものでした。
 CD「立神」(ビクター、1995)は何度も聴き、今でも時々聴いています。

 諸数の集落の中心となっている広場は、これまでに見てきた各集落のその部分をまるでコピーでもしたかのように同じつくりになっていて、公民館的な建物として「諸数集会所」があり、その前には土俵。道路側の一角に大きくて枝ぶりのよいガジュマルの木があり、その下には木製や石製のベンチがあり、加計呂麻バスのバス停標識が立っています。ここの石造りのベンチは、テーブルまで付いていて立派です。

 ガジュマルの木の下に小さな碑が建っていました。これは何?

   東(あがれ)から上(あが)る 月(てぃき)や変れども
   何時(いてぃ)む変らぬ 諸数人(ちゅ)ぬ心
    詞・書 渡 哲一   平成15年9月吉日

   新造船10周年
   贈 貨物フェリー「天長丸」 (有)山畑運送

 おそらくは諸数出身の会社社長が自費で建てたと思われるものです。
 (有)山畑運送とは、古仁屋を本拠とする運送業者で、貨物フェリー天長丸を所有。フェリーかけろまがドック入りした時などにはこの天長丸が代わって自動車を運ぶのだそうです。1993年5月竣工の171トンの船です。
 また、渡哲也と一字違いの「渡哲一」サンは、1934年、瀬戸内町蘇刈(そかる。ヤドリ浜やホノホシ海岸のあるあたりですね)生まれの唄者で、1979年の第1回「奄美民謡新人大会」(現在の「奄美民謡大賞」)で最高賞の新人賞を受賞。1981年から2004年まで瀬戸内町中央公民館の「シマ唄講座」講師。――という方なのだそうです。


 俵から5分もかからずに、瀬相(せそう)に到着。ここにはフェリーかけろまの発着する港があり、島のターミナル機能を担っているところ。集落の規模も島の中では中型で、29世帯55人が住んでいます。

 フェリーターミナルの駐車場に車を停めて少しだけ散策。
 港の入口には写真のようなモニュメントがあり、その奥には小さな乗船券販売所がありました。
 県道614号を挟んで山側のほうには、徳洲会の加計呂麻診療所。これは15年前にはすでにあったな。
 でも、その前の「加計呂麻島のいっちゃむん市場」というのはなかったぞ。加計呂麻島のお土産や野菜、果物、刺身などを置いている島のスーパー的な店のようでした。

 15年前には、加計呂麻島にはフェリーで生間から入り、ここ瀬相から大島へと戻ったのでした。
 その時に撮った写真を見ると、瀬相の港の真ん前には「ゆっくり走ろう加計呂麻路 交通死亡事故ゼロ 5000日達成記念」と書かれた看板や、「みんなの力で加計呂麻へ橋を架けよう!!」という期成同盟会の看板などがあったものでしたが、今回はどうだったのだろう。よく見てこなかったので、残念ながらわかりません。


 島の端っこの実久を制して、そろそろフェリーの港へと戻ることにしましょう。県道614号を一路南東方面に向かい、生間港を目指します。生間発の最終便は15時55分発。それまで1時間半ほどしか残っていません。大丈夫かな?

 既に見た薩川、瀬武を過ぎて、木慈(きじ、6世帯10人)、武名(たけな、8世帯9人)、三浦(みうら、11世帯16人)を素通りし、斜め右方向に細く伸びる旧道に入り込んで、俵(ひょう)の集落を訪れました。
 ここは比較的平たん部が広く、スルーしてきた3集落よりも大きくて、41世帯、59人が暮らしています。

 旧道に面した一角に広場がありました。その奥には2階建ての建物。加計呂麻島で唯一の2階建て公民館なのだそうで、1階は俵公民館、2階は民具資料室になっています。
 めずらしく集落内を歩いている人が二人ほどいて、久々に近くで人を見たのでびっくりです。(笑)

 その広場には、地図が薄くなりかけた「瀬戸内町観光案内図」とともに、大きなデイゴの木が立っていました。
 いい枝ぶり。ほんの少しだけど赤い花が咲きかけています。

 デイゴ(梯梧)は、マメ科の落葉高木で、インドやマレー半島が原産。日本では沖縄県が北限とされていますが、先に諸鈍でも見てきたとおり、加計呂麻島でも立派に育っています。
 春から初夏にかけて赤い花が咲きますが、毎年満開となる保証はないそうです。
 沖縄では、デイゴが見事に咲くと、その年は台風の当たり年で、干ばつに見舞われるという言い伝えがあります。

 振り返ってみると、デイゴの花がたくさん咲いているところをまだ見たことがありません。琉球弧方面には50回近く、正確には今回で48回訪れていますが、ゴールデンウィークや夏休み期間には訪れることはあっても、その間の5月中旬から7月中旬までの間は一度も訪問経験がないのでした。
 真っ赤に咲き誇るデイゴを見ることができるのは、仕事をリタイアした後になりそうですが、そんなところをぜひとも見てみたいものです。


 実久三次郎神社からほどなくして実久集落の入口へ。このあたりは鮮明に記憶していて、15年前もここに車を停め、近くの防波堤に胡坐をかいて弁当を食べたのでした。そして食後は、護岸に寝転んで小1時間ほどウトウトしたのでした。
 天気はそれほどでもない中でも、海はきれい。ビーチの美しさは加計呂麻島でもNO.1とも言われ、際立つ海の青さは「実久ブルー」とも称されるのだそうです。

 今回、ここではそれほど時間を取れないので、防波堤の内側に沿って形成されている集落を見に行きます。
 実久は16世帯、27人の集落。けれども家を囲む石垣がしっかりしているため、もっと多くの人が住んでいるように感じられます。

 その石垣がなかなか見事。板状のサンゴを平積みに、つまりは野面積みにしているようです。
 サンゴの石垣群は、前日、大島本島ではここだけという西古見でも見てきたところ。また、喜界島の阿伝もサンゴの石垣では有名ですが、今回行けなかったのが残念です。
 ともあれ、加計呂麻の実久でも見ることになるとは意外な展開でした。

 サンゴの石垣は、かつて奄美大島の各地にありましたが、ハブが住み着くことから今ではほとんど見られなくなったということです。


 芝から薩川まで来た道を戻り、そこから島の北西端にある実久(さねく)集落を目指します。
 14時を過ぎたので、けっこう飛ばしていきました。
 集落に入る手前の右手の山中に鳥居が見えたのでいったん停車。ここは実久三次郎神社です。15年前に通った時には寺社仏閣などに興味はなく素通りしていたので、今回初めて見ることになります。
 入り口の右手に「由来」が横書きで記されていたので移記します。

実久三次郎神社由来
 今から約800年前の永万2年(1166)、源為朝が喜界の小野津港に上陸して、一軒屋を訪れると美しい娘が機織りをして居った処、為朝の顔を見ると「貴男は八郎殿ではないか」と話しかけてきたので、為朝はびっくりした。この島で自分を知っている者がいる筈はないと問い返した処、昨夜の夢で貴男が尋ねて来ることを知らされたと申し、それが縁となり夫婦の契りを結び一子を儲けた。
 為朝は喜界に居っては十分な勢力を造ることが出来ないと感じ、小野津に神社を造って喜界を離れ大島北部に上陸したと伝えられ、これが喜界の小野津神社の由来とされています。
 その後、為朝は本島を南下して各地に伝説を残して当地実久に来たのであります。この実久神社には、長子実久三次郎が祭られており、この加計呂麻島の旧実久村及び鎮西村の名称もこれにちなんで居るとの伝説があります。
 鎮西八郎為朝の子・実久三次郎が宇検の名柄八幡と力比べをした時に用いたと伝えられている石が2基、当神社に安置されているのでありますが、此の石に三次郎の手形、足型と言われる痕跡がありまして、実久三次郎が如何に巨人型の人であったかを物語っております。
  瀬戸内町

 ナルホドなあ。為朝伝説の主人公である源為朝は、このたび訪問が叶わなかった喜界島の小野津で妻子を得て、このまま小さな島にくすぶっていてはいけないと奄美大島を北から南へと下り、加計呂麻島の実久に辿り着く。そしてその子である実久三次郎を祀っているのがここである、ということですね。

 石段を上って鳥居をくぐると、その先には小さな社殿。左側には石造りの灯篭と、「源氏 実久三次郎神社 鎮西八郎為朝子 関西実久平和会建立 昭和60年8月」と刻された石碑。
 境内の左側には実久三次郎の墓、そしてその奥には「鎮西八郎為朝乃妻・実久ナベシリカナ之墓」がありました。
 「宇検の名柄八幡と力比べをした時に用いたと伝えられている石」とは、墓の前に放置されていたフツーの石のことだったのだろうか。


 県道614号からはずれた道をそのまま進んで、10分とかからずに芝(しば)に入りました。
 芝集落は、50世帯、71人が住んでいます。

 芝と言えば、昇曙夢の生まれ故郷。せっかく加計呂麻島に来たのだから、昇の像は見て行かなければなりますまい。
 像のある場所は集落のどまんなかであっさり発見。加計呂麻島はわかりやすいよなあ。大きな胸像が道路から見え、その周辺はちょっとした公園のように整備されています。

 昇曙夢がどんな人なのかについては、その場にあった看板を引用します。

昇曙夢先生のご紹介
 昇先生は本名を直隆、号を曙夢と称し、明治11年7月瀬戸内町芝に生れました。幼少の頃から向学心にもえ、明治28年上京、同36年ニコライ露語学院長をはじめ、早稲田大学、日本大学、陸軍幼年学校等の講師を兼任、大正5年陸軍士官学校の教授となり、昭和17年退官されましたが、その間、朝日、毎日、中外南業各新聞社や、内務省、陸軍省、内閣等の嘱託を歴任され、国家社会のために大いに貢献されました。
 ソ連に留学すること4回、1928年のトルストイ誕生百年祭には、国賓として招待の栄誉に浴し、世界的ロシヤ文学の権威者として名声を博しましたが、特に昭和30年刊行の「ロシヤソヴエト文学史」は読売文学賞、日本芸術院賞の栄冠に輝き、奄美が生んだ偉大なる文学者として一世を風靡いたしました。
 又、人一倍愛郷心に燃えた先生は、公私多端の中にも常に郷里を忘れることなく、郷党の啓発向上に心血を注ぎ努力され、東京奄美会、瀬戸内会、実久村会等の会長にも就任され、身をもって後進の指導に当られ、郷党の師父と仰がれました。
 先生は学生時代から郷土史の研究にも心がけ、昭和2年南洲翁50年祭を機会に「奄美大島と大西郷」を出版、その後昭和15年で東京奄美文化協会が設立されるや、その会長に就任され、同協会の事業として、昭和24年不朽の名作「大奄美史」を刊行し、奄美の名を広く公開しました。
 更に先生の偉業の中で忘れてはならないのが、昭和28年の民族の叫び「奄美の祖国復帰」であります。
 内外40万同胞が一致団結して行った復帰運動に際し、先生は、奄美大島復帰対策全国総委員長として活躍し、病身をおして献身的に尽力されたことは、郡民ひとしく敬服するところであり、その功績は永遠に復帰史に残るものと思います。
 これら数々の業績を残して先生は、昭和33年11月鎌倉市稲村ケ崎の自宅において81才をもって逝去されました。
 以来17年、先生を慕う多くの人々の間に先生を奄美の鑑として顕彰したいと念願してまいりましたが、今般、遅ればせながら先生の「胸像」を生誕の地「芝」に建立して、幾久しくその徳を後世に残すことになりました。


 人となりについては、この説明文で十分ですね。
 でもって、胸像。台座には「昇曙夢先生」。
 身体のわりには顔がデカイです。そして彫りが深いです。
 像から受ける印象はなんだか厳ついようなものがありますが、写真を見るとそうでもなく、庶民的な表情をしていました。

 前掲の看板の記述と重なるところがありますが、胸像の後ろ側には次のように刻されていたので移記しておきます。

 昇曙夢先生は、わが国ロシヤ文学の開拓者でトルストイ生誕百年祭に国賓として招待された世界的文学者である。名は道隆。明治11年実久村芝に生まれ、28年立志上京し、36年ニコライ正教神学校を卒業して神学とロシヤ語を学び、文学に志して露国に留学すること4度、その蘊奥を究めたが、図らずもロシヤ文学の思想根底にわが奄美民族伝統の思念に通ずるものがあることを知り、先生の愛郷心は更にロシヤ文学の研究に励みその研究はまた奄美の認識を深め、遂に幾多著作の上に「大奄美史」と「ロシヤソヴエト文学史」の二大名著を完成。後者は昭和31年、日本芸術院賞と読売文学賞受賞の栄冠に輝き、33年81歳で逝去されたのである。
 蓋し先生の高潔な人格と偉大な業績はその著作によって広く国の内外に知られており、胸像の建立などは先生を顕彰するにたるものではなく、而かも郡市民の興○によって之をなす所以のものは、先生が苦学力行大成してよく郷土を愛し郷土のためにつくされたことにあり、これは永く伝えて吾等の範とすべきもの。これによって御遺徳を体するものが各方面にあらわれ、また英霊がわが郷土を守り後進を導きたまわんことを祈る微衷にほかならない。
  昭和50年3月
    龍野定一  撰並書
    谷村唯一郎 書


 文章は後半になるに従って感情の昂りを禁じ得ないような体になっていくのがおもしろい。
 この文を書いた龍野定一は、奄美の教育改革者。1889~1986年。徳之島町亀津生まれ。鹿児島中学(現甲南高校)、広島高等師範を経て、福岡県立東筑中学校を皮きりに、善き教育者の指導を求めて自ら1校2年を1期と定め、鹿児島一中、広島一中、京都女子師範、同男子師範を歴任。その後悟るところあって東京深川の貧民地域改善の隣保事業に献身したという人物。
 戦後は社会教育に専心し、東京都北区公民館長となり、全国公民館連絡協議会長、東京都社会教育委員会議長などを歴任し、日本教育評論家協会理事長、同名誉会長。
 1954年5月、社会教育功労者として第1回文部大臣表彰をうけ、1966年に受勲。
 徳之島町名誉町民、名瀬市名誉市民――とのこと。

 もう一人、谷村唯一郎(1887~1982)は最高裁判所判事。旧名瀬市の名誉市民で、名瀬伊根町というから奄美市役所の西側の一角に当りますが、そこには今も谷村唯一郎の生家が残っているようです。

 また、胸像の作者は、彫刻家基俊太郎(1924~2005)による1974年の作。基は、名瀬市(現奄美市)生まれで東京美術学校彫刻科卒。日本美術院院友。日本美術院同人。碌山美術館顧問。造形論や故郷奄美大島の環境と自然について明晰な評論を残したことで知られているそうです。

 胸像のある広場の前は浜になっていて、素朴な桟橋があったりして、南国の漁村の様相を呈していました。


 瀬武からは、加計呂麻島では最主要道路の県道614号を使って薩川(さつがわ)へ。これまでの道と違ってスムーズに走れるので、10分とかからずに着いてしまいます。

 目的地は瀬戸内町立薩川小学校。県道から芝(しば)集落へと伸びる道へと入って少し行ったところに学校はあります。
 この学校はNHKの土曜ドラマ「島の先生」(2013年5月から6月にかけて放送)の舞台となった小学校なのです。

 都市部で問題を抱えた児童・生徒たちが、鹿児島県の離島・美宝島(架空の島)の学校に留学し、里親の元で生活する様子と、それらの生徒の問題に当たる先生の心の成長を描いたものでした。
 ヒロインの先生役は仲間由紀恵。先生自身も、実母との関係に苦しみ、中学生時代にこの島で留学生活を送ったことがあり、生徒たちとともに悩みながら、もう一度人生をやり直そうと励んでいる――という設定。脇役を石坂浩二や井浦新などが固めたいいドラマだったと記憶しています。

 番組でその学校が写った瞬間、これは加計呂麻島のどこかだろうとすぐにわかりました。そして、それが薩川小学校だと頭にインプットしていたので、今回の旅では是非寄ってみようと考えていたのでした。

 実際にその場に立ってみても、穏やかな瀬戸内の海が目の前にあって、すごくいいところ。
 校門のコンクリート製の門柱が立派で、「瀬戸内町立薩川小学校」のプレートが埋め込まれています。
 校内には、2007年に建立された「創立百周年記念碑」、その隣には1935年に建立された「奉安殿」。奉安殿って・・・。いまだに温存されていたのですね。国の登録有形文化財だそうです。
 ほかに、明治40年4月開校を示すでっかい碑や、創立80周年を記念してつくられた亡師亡友の碑なども。

 校舎は、校庭の周りに平屋建てで。このスタイルって加計呂麻の学校の定型だよな。
 その校庭は芝の黄緑色。古い大木が数本立ち並んでいて、枝には様々な形や大きさのブランコが設えられています。
 この環境に、2016年度は、児童7人、職員7人というのですから、羨ましい環境の学校です。

 薩川集落は、35世帯、59人が住んでいます。


 須子茂からまたもや山道を通って阿多地(あだち)へ。世帯数4、人口5の極小集落で特に何もないので、時間の関係上通過。そろそろ焦り始めています。
 阿多地からは山越えをして、大島海峡側に出て、瀬武(せたけ)に入りました。
 瀬武は、世帯数23、人口31人の集落です。

 瀬武では「旧実久村役場跡」を発見。
 場所は、加計呂麻島の大動脈(といってもそれは小さな道なのだけど)県道614号線沿いにある瀬武公民館の隣り。「實久村役場」と書かれた古い木製プレートがコンクリート製の門柱に打ち付けられていますが、その門柱のほかは小さな小屋とブロック積みで囲われたバスの待合所があるだけです。
 つまりは、役場の「跡」以外のナニモノでもないということなのでしょう。

 調べてみると、1956年の町村合併で瀬戸内町ができますが、それ以前には瀬武に旧実久村の役場がありました。
 瀬武は藩政期には西間切西方に属し、本島側の西古見、久慈、篠川などと同じ行政区域にありました。
 明治になって間切が廃止され、加計呂麻島が渡連方、実久方の2方になると、瀬武には実久方の戸長役場が置かれました。
 その後1908年に町村制が敷かれ加計呂麻島、請島、与路島を合わせて鎮西村となり、このときの役場は於斉に置かれたようです。
 大正に入って1916年、鎮西村から実久村が分離し、このとき瀬武に実久村の役場が置かれました。その後1956年に瀬戸内町が誕生するまでの40年間は、ここに役場があったというわけですね。

 公民館の前はご多聞に漏れずバス停と、これもガジュマルなのかな、立派な木と広場がありました。


 次は須子茂(すこも)。嘉入から距離にして2kmぐらいでしょうか。13世帯、18人と、ここも小さい集落です。
 この集落は珍しく本通りが海岸の防波堤に沿ってバイパス化されており、うっかりすると集落を通り過ぎてしまうので注意が必要です。

 ミヤのつくりは先ほどの嘉入のそれと酷似していて、「瀬戸内町中央公民館須子茂分館・離島生活住民センター」の前にブルーシートがかけられた土俵、建物の並びに最近つくられたと思われる新しいアシャゲがありました。

 広場のセンダンの木の上から猫が顔を出し、降りてきて物欲しそうに足元にすり寄ります。無防備だなあ、コイツ。この甘え方を見ると、生まれてからこのかた人間から悪さをされた経験などないのだろうな。シアワセな人生、いや、猫生だな、オマエは。

 で、アシャゲの脇には面白い形をした石があり、手書きの説明板がつくられていました。引用します。

イビガナシ
 須子茂には2ケ所のアシャゲとトネヤがある。
 アシャゲの隣に建っている石灰岩の自然石がイビと呼び、島立神として集落を守っている神様であり、昔は茅葺きのアシャゲが神事の中心でありホボツ山から神が降りてきて人家の中を通りアナタリのアシャゲに歩いて行ったと言う。
 65才以上の女性全員が神人で祭りを行っていた。

 この自然石が集落の神様であり、2カ所にあるアシャゲのひとつはこのイビの隣にあるナハマのアシャゲ(西側)で、もうひとつは集落を挟んで東側にアナタリのアシャゲというのがあるようです。