haraidanomatsu 201610

 余目方面に出かけて戻るときに、道路からすぐのところに見えるのでいつも気になっていた「払田の地蔵の松」。このたび初めてその木の前に行って佇んでみました。

 立派な松。松くい虫があちこちのマツを食い荒らしていますが、管理が行き届いているのかこの老木はその影響がないようで、青々としています。
 以下に、立て看板を引用。

山形県指定天然記念物  昭和33年7月25日指定
払田の地蔵の松
  樹種 くろまつ  根まわり 4.3m  目通り幹囲 3.4m  樹高 10.8m
  枝張り 東に8m 西に12m 南に10m 北に9m  樹齢 推定370年

この松の言い伝え
 備前の国の池田侯の一族といわれる人々が、鳥海山のふもとに来て、その地を開拓したが、山崩れにあったため、本町(註:旧余目町)福原付近に移住したところ、今度は、洪水にあい田畑を失なった。そこで三たび移りこの地を「払田」と名付けた。この松はそのころ植えられたといわれる。
 後に庄内藩主酒井侯のもとめにより藩邸に移植されたが、夜な夜な女の泣き声を発するので気味が悪くなり、六面地蔵を添えて植えもどした。それからこの松を地蔵の松というようになった。


 地蔵のマツの敷地内には、古い「耕地整理記念碑」も立っています。
 碑の裏に刻まれた文字を読むと、常万・八栄里土地改良区の払田工区にかかるもので、1949年11月に起工し、50年12月に完了、57ha強を300万円近くの工費をかけて完成したものだとわかります。そして、そこに名を連ねている人の多くが「池田」姓でした。
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koutakuji0-1 201610

 2016年10月のある日、羽黒町手向にある庄内三十三観音札所の首番、羽黒山荒澤寺に行きました。
 庄内三十三観音はこれにて首番、番外を含む35か所すべてを巡り終えたことになります。
 昨年から巡り始め、拝んできたわけでもなく、信心深いわけでもなく、三十三観音のある寺を巡らなければおそらくは一生行かないであろう所在地のたたずまいを眺めるための巡礼でしたが、それなりにおもしろかったし、庄内地方とはどういうところであるかを知るひとつのよすがにはなったと思います。

 さて、番外の荒澤寺。
 羽黒山の有料道路に入るT字路の少し手前、登っていった側から右手の奥にありました。ここ、羽黒山の神社からは少し離れているけど、どういう経過でここに建てられたものなのか。

 観音堂の脇にあった年代表によれば、次のとおり。
 『推古14年(606)、崇峻天皇の皇子であり、聖徳太子の従兄にあたる蜂子皇子の草創と伝える。皇子は能除仙(のうじょせん)と称され、月山・湯殿山をお開きになった。登山に際し、荒澤にて修業し、下山の砌荒澤にて別火修業し、湯殿山・大日如来の荒魂(あらみたま)を「不動明王」、和魂(にぎみたま)を「地蔵菩薩」として祀り、常火堂を建立して湯殿行の根本をお定めになった。』
 うーむ・・・、なんのこっちゃ。よくわからん。書いた側が自分の文章に酔っているという感じ。

 ウェブ上にあった別の記載は次のとおり。
 『創立は今を去る1350前、推古天皇時代で羽黒山最古の寺院である。開山蜂子皇子の別修業の跡に足長(最高位の人)弘俊が一宇を建立し、開祖の恩沢を記念して広沢山荒沢寺と称し、羽黒山八大伽藍の随一となる。後に弘法大師などもこの地で修行せられたので、開山大士が湯殿山大日如来の和魂(ニギタマ)を地蔵尊とし、荒魂(アラタマ)を不動明王としして祀り、湯殿山御宝前鎮火大権現ともいわれ、特別の崇敬を受けた霊地となり、羽黒山奥の院として女人禁制の聖地となったのである。』――とのこと。こちらも少しはわかるけど正直よくわからん。

koutakuji0-2 201610

 山中の寺で、日常的に近くで寺を管理する住職的な人はいないようで、山門などは比較的粗末なものですが、観音堂はわりと新しく、境内内には多くの石碑などが立ち並び、由緒ある寺であることがわかります。

 これでひとつの目的を達成。さて、今後はどういう形で庄内を見ていこうかと思案中です。
ryukakuji28 201607

 鶴岡市泉町にある「新山龍覚寺」に行ってきました。

 700余年ほど前、羽黒山が険しい霊窟だったため、老幼婦女子が参拝するのが困難なことを踏まえ、鶴岡城の西、三の輪龍覚寺町に羽黒山の聖観世音菩薩を勧請し、羽黒山の別院として一宇を建立したのが始めであるといわれています。
 その後、その場所が御用地として使用されることになったのでいったんは浜中街道に移され、慶長10年(1605)には三遷して現在の高畑堤上に移され、山号を新山と称しました。
 酒井忠勝公が入国する際、この地が城の鬼門に当たっているところから酒井家の祈願所を仰せつけられ、一躍庄内領寺院中最上位に置かれることとなりました。
 この観音堂は創立以来火災に遭ったことがないので、火防せの観音あるいは厄除け観音として霊験あらたかな霊仏として近隣の信仰を集めている、とのことです。

 社の前には「藤沢周平 その作品とゆかりの地」の看板が立っており、著作の「蝉しぐれ」にこの寺が「龍興寺」として次のように登場することが示されていました。

 「門内に入ると境内の砂利に、午後の白い日が照りつけていた。鐘楼から本堂の裏にかけて、小暗い森ほどに杉や雑木が生いしげり、そこにも蝉が鳴いていた。
 文四郎と市左衛門は仏殿の階段を上がって寺内に入った。
 仏殿に入ると、入り口に帯刀のままの武士が数人いて、二人を見るとすばやく誰何の声をかけて来た。そこで姓名を改めると二人の刀を取り上げ、そこから仏殿の内部に案内した。」

 なるほど。今自分が立っているこの場所が、まさに作品に描写されているというわけなのですね。
 盛夏が始まろうとしている日の午後1時。「午後の白い日が照りつけて」はいましたが、蝉はまだ鳴き始めで、「蝉しぐれ」がなかったのが残念でした。

 さて、永らく歩いてきた庄内三十三観音も、ついにリーチがかかって首番の羽黒山荒澤寺を残すのみとなりました。
50notou-light 201607

 7月16日の土曜日のことになりますが、「国宝羽黒山五重塔ライトアップ開始式」に参加してきました。

 隋神門から石段を7~8分歩いて行ったところに五重塔があり、そこで「き乃はち」さんによる尺八演奏がありました。
 き乃はちさんの演奏は、去年ここで聴いて以来2回目。陽が沈む時間帯、深閑とした山中の五重塔をバックにしての尺八はなかなか幽玄です。
 「宙(そら)へ」「夜明け」などの定番のほか、新作の「桜舞う男たち」など。

 あいにく小雨のそぼ降る中での開始式となりましたが、楽しめました。
 これから夏の間の週末などには毎日ライトアップされます。
shirasakiiin 201606

 海向寺を見たついでに日和山公園も眺めてみました。
 日和山公園には何度か来ているので、海側ではなくむしろあまり足の向かない山側を見ましたが、その一角に大正モダン調の白い建物があるのを発見。あれは?

 それは、「旧白崎医院」。
 案内板を引用。

酒田市指定有形文化財(建造物)
旧白崎医院 附 両便所供待所
 大正8年(1919年)に建てられたもので、大正時代の建物では、酒田に残る唯一の木造洋風建築です。デザイン、材料ともに優れ、しかも大正期の原型がこれほど完全な形で残っている例は少ないといわれる貴重な建物です。
 名外科医として活躍された白崎重治氏の外科医院(1階は医院、2階は住居)として造られました。昭和51年(1976)の酒田大火後、建物は白崎家より酒田市に寄贈され、保存のために昭和55年(1980)に本町通りから現在地に移転しました。
 昭和53年9月8日指定

 あ、入館できたのですね、しかも無料で。
 でもまあ、建物は外から眺めるのがいいですよ。
kohata 201606

 日枝神社、海向寺の道路を挟んで向かい側、日和山公園入口の並びに建っている古い建物は、「旧割烹小幡」。昭和元年頃の建造と伝えられ、鉄筋3階の洋館と木造2階の和風建築物がうまく調和した建築物です。
 アカデミー賞を受賞した映画「おくりびと」(2009年)のロケ地となり一躍脚光を浴びた建物です。
 映画では、主人公が就職するNKエージェントビルの社屋という設定で登場しました。

 老朽化により2013年度まで建物内の一般公開を打ち切られています。
 修繕費は本館と土蔵だけで1億円超とみられており、存続の危機が続いているようです。
kaikouji 201606

 酒田市日吉町の「海向寺」に寄ってみました。
 少し前に訪問した「日枝神社」のすぐとなりが寺の入口になっていました。旧「割烹小幡」の向かいです。
 忠海上人、円明海上人の2体の即身仏が安置されている寺で、酒田のパワースポットとして近時もてはやされているようです。1つの寺に2体の即身仏があるのは全国的にもここだけだということです。

 「即身仏奉安 砂高山海向寺」の案内板があるゆるやかな坂道を上っていくと、正面に本堂、右手に「粟島水月観音堂」、左手に近代的な建物の「即身仏堂」がありました。

 「海向寺略縁起」の看板があったので書き写しておきます。

海向寺略縁起
 当山は、宗祖弘法大師の開山と伝えられ、のちに真然上人が胎蔵界大日如来(湯殿山大権現)を本尊として一宇を建立したことに始まります。
 忠海上人・鉄門海上人代に再興・堂宇整備をしつつ、今日に至っております。

 現在、真言宗智山派に属し、総本山は京都東山の智積院をはじめ、成田山・川崎大師・高尾山と同法であります。
 古くから祈願道場として栄え、申し込みにより随時御祈祷をお受け致しております。

 「粟島水月観音堂」及び「即身仏堂」の案内板は、それぞれ次のとおりです。

粟島水月観音堂
 湯殿山木食修業を経て即身仏となった当山8世、鉄門海上人が在任した文政年間(1818~1830)、新潟への布教の帰りに粟島で難産に苦しむご婦人の平癒祈願を施し、にわかに実の安泰を呈したことにより、当主脇川家(現在、民宿脇川治郎作)より賜った秘石、「粟嶋水月観世音」を持ち帰ってこのお堂に奉安したことに縁起由来する。
 江戸期以来、女性一代の守り観音さまとして信仰を集め、特に縁結び、安産成就、子授け、婦人病の安泰を祈る人々の、心の拠りどころとなっている。

即身仏堂
 長年木食修業を積み、即身仏となった海向寺中興1世忠海上人と、9世円明海上人をこのお堂に奉安する。
  我が余生は 衆生済度のため 木食行に身を投じ
  一切衆生の精神苦 病苦 解脱の杖となり
  願いをかける者には すべての諸願を成就せしめん
との誓願により、拝観をご希望の方は、尊仏合掌の念にてご参拝下さるよう願います
  砂高山 海向寺

 粟嶋水月観音堂の先には鐘撞堂。小高くなっている場所なので、その高みからは酒田市内が一望できます。
seizenin 1 201606

 2番札所の「羽黒山金剛樹院」を見た後に行きました。
 こちらは立派。羽黒山の宿坊街を形成する道路に面しており、ここの前だけ道路がぐっと広くなっています。本堂となっている「黄金堂」は国指定の重要文化財になっています。

 「南無観世音菩薩」と記された赤い幟の林立する入口の先には山門。その左手には以下のような説明板がありました。

国指定重要文化財 羽黒山正善院黄金堂
指定年月日 明治41年4月23日(昭和25年8月29日)
告示番号  内務省告示第43号(建第497号)
指定理由  文化財保護法第27条の規定による。
沿革  黄金堂は同境内(現在は道路によって分断)の正善院の所有である。
 正善院は黄金堂の別当職で往古「手向山」中禅寺正善院と称し、のち、羽黒山長寿寺正善院と称してきたが、維新後、羽黒山荒澤寺正善院として現在に至っている。
 もと羽黒山には羽黒山寂光寺・添川山賀我寺・広澤山荒澤寺・堂塔山瀧水寺・南流山禅定寺・金色山福王寺・手向山中禅寺・来迎山千勝寺・医王山機乗寺・不動山嘉祥寺の十大寺により構成されていたが、次第に羽黒山に統合し殷盛を極めたが、明治の神仏分離後は荒澤寺・正善院・金剛樹院の三ヶ寺が現存するにすぎない。
 黄金堂は、山上の大金堂(今の三神合祭殿)に対して、小金堂と言います。金堂とは本堂のことで、33体のご本尊が金色に映えしより、黄金堂と書き、コガネドウと訓む。
一、神亀5年(728) 聖武天皇勅願建立との伝承あるも詳ならず。
一、建久4年(1193) 源頼朝建立とも伝う。建築奉行土肥次郎実平。
一、元応2年(1320) 出羽国判官代栄家、修覆。
一、文禄3年(1594) 酒田城主甘粕備後守景継公、大修覆。
一、後世しばしば修理模様替あり、昭和39年解体修理、工期満2ヶ年、同41年解体修理完了。同61年防災設備完備。お堂の中には貴重な文化財が多くお祀られております。
一、私達国民の宝・文化財を大切に愛護しましょう。
  平成4年3月
    山形県教育委員会 羽黒町教育委員会 羽黒山荒澤寺正善院

 かつて羽黒山には「十大寺」と称されるように10の寺があったが、神仏分離後の今は3つになっていること。その3つが庄内三十三観音の首番・荒澤寺、1番・正善院、2番・金剛樹院で、先ほど見てきた金剛樹院は十大寺のうちの来迎山千勝寺の流れをくんでいるということなのでしょう。
 また、羽黒山の「三神合祭殿」がかつて大金堂と呼ばれ、こちらがその「小」金堂であることがわかります。
 建立の逸話も2種類あるようです。

 山門には古い鉄製の大きな鍋のようなものが置かれています。これは「弁慶の粕鍋」。
 1 弁慶がこの鍋で粕汁を煮て一飲みしたといわれている。
 2 蒙古襲来のとき、敵の降伏を祈って羽黒山で大梵鐘を鋳造したが、その時に使った鍋だといわれている。
 3 3個造ったうちのひとつで、ひとつは鶴岡市鳥居町の河原に賽銭受けとして埋め、今一つは釜清水に埋めたという。
 などの逸話があり、ある博士が言うには、この種の鍋は箱根権現厳島神社にもあり、共に修験の籠ったところなので、おそらくは「探湯」「湯立」に用いたものではないか――とのことです。

 山門の奥に、その黄金堂。

seizenin2 1 201606

 山門のあるところと道路を挟んで反対側には、「道路によって分断」された伽藍の一部がありました。
 門には「羽黒山修験道総本部」、「羽黒山修験本宗 羽黒山荒澤寺 正善院」の看板が掲げられていました。
 「荒澤寺」と「正善院」が混在しています。首番の「羽黒山荒澤寺」はここよりも山の上にあるはずなのですが、その本拠もここなのでしょうか。
kongojuin2 201606

 全35カ所のうちの32カ所目は、羽黒山金剛樹院。

 ナビに従って到着。裏手からのアプローチとなったようで、はじめに見たのは獣魂碑を従えたお堂。この小さなお堂が目的地かと思って一瞬天を仰いでしまいましたがそうではなく、その反対側にちゃんとした入口がありました。
 来迎山千勝寺金剛樹院というのが今の正式名称で、天台宗の寺のようです。
 山門の正面には赤い前掛けを着けた6体の石地蔵があり、左手には赤い鳥居とお宮と石塔、その後ろに墓地がありました。

kongojuin2-2 201606

 本堂の左手に回り込むと、裏の山へと通じる階段があり、その脇にたくさんの小さな石像や集積された無名墓が並んでいました。
 その石段を登っていくと、木々の間に大きめの社。どうやらここが観音像の安置場所のようです。文政13年(1830)に羽黒山の別当山海僧正が建立したものといわれ、天井の絵は庄内の画師が寄進したもの、観世音像は山形藩主最上義光の局である妙円禅尼の護持仏といわれているとのこと。
 半開きになった入口から中を覗くと、内部の柱に「聖観世音菩薩オンアロリキャソワカ」と書かれた張り紙がありました。なんじゃ、そりゃ。像自体は扉が閉ざされていて見ることは叶いませんでした。

 康永3年(1343)の開山とされますが、文政5年(1822)に手向村が全焼した際に類焼。次いで明治3年(1870)の神仏分離の布達によって宝物、古記録類などが悉く散失。そのため現在では往時を偲ぶよすがはありません。
 明治維新の頃、境内に湧出した清水が金剛清水といわれ、羽黒山五水の随一のものであったそうです。
chogenji 201606

 31か所めは、旧羽黒町狩谷野目の集落はずれにある第4番札所の「福地山長現寺」。
 行ってみたところ、山の中にあるわけでもなく、樹木が生い茂っているわけでもなく、ご覧のとおり歴史のある寺という感じのしないものでした。そう感じるのは山門がないからなのかもしれません。

 「門柱」を入ると、右手に石碑があり、次のように刻されていました。

第4番福地堂御詠歌
  もろびとの ねがいもふかき ふくちどう
     だいじだいひの ちかいたのもし    仙翁道壽謹詠

 ある情報によればこの寺は、開創文禄2年(1593)の開山とされています。多くの古文書を所有していたものの度重なる火災により焼失。
 観音菩薩像は羽黒山から移されたもので、秘仏として毎年例祭の4月9日と9月9日に御開帳されます。その観音像は福地大権現の本地仏でしたが、大正15年(1926)に仏式が廃され福地神社に改められた際、長現寺に移されたのだそうです。

 とりたてて見るものがないので墓地に立つ墓石を観察。檀家の皆さんには今野、富樫、小野寺、佐藤などの姓が多いようでした。
raiden 201606

 庄内三十三観音第30番札所の高寺山照光寺の道路を挟んで向かい側は、竹林のある小高い山状になっていて、その一帯が「雷電神社」の境内となっています。
 照光寺に向かう数十メートル手前にどんとした石鳥居があって、それが「郷社雷電神社」のものであることから察すれば、この一帯は寺よりもむしろ神社のほうが格式が上のように感じられる場所でした。
 その参道だったと思われる集落内の道には庚申塔や墓碑、小さな社などが並び、権現信仰の名残りがぷんぷんします。

 緩やかな登り道に敷かれた味のある石段を登っていくと、大きいけれどもかなり古い山門があり、その先に本堂が見えました。
 山門内の両脇には仏体はなく、鬼瓦などの置き場と化していましたが、その中に「雷電神社沿革」の看板が混じっていたのを見つけたので、その記載事項を移記しておきます。

雷電神社沿革 5級社 旧郷社
鎮座地 羽黒町大字高寺字南畑115
例祭 5月8日  本殿 1坪半  弊殿 9坪
境内地 4,668坪  氏子 36戸
由緒  主神保食大神を奉詞し、崇峻天皇第一皇子蜂子皇子の草創し給う社にして、月山中なる金剛山雷電磐と唱える処を本社奥の院と称してきた。
 安政4年5月5日、社殿焼失にあい弐百両余にて仮殿建立する。明治9年、郷社に列せられ、明治23年4月、再度焼失。昭和24年、現在の社殿建立す。
 爾来、50有4年の星霜を重ね、雨漏り傾き免れず、氏子総意結集して瓦屋根を銅板に葺替、平成15年11月完成。社殿鬼瓦を残し、装飾移築した。

 なるほどね、中に置いてあるのはその鬼瓦なのですね。

 山門を入って進んだ右手には、この幽玄な場所に不釣り合いなコンクリート製の建物がありましたが、どうやらこれが高寺八講の舞台になるところのようです。
 本殿は大きくて立派。「雷電神社」の掲額が金色に輝いていました。
shokoji30 201606

 30か所めは、旧羽黒町高寺にある「高寺山照光寺」。

 崇徳天皇代の1141年の記録によれば、718年に建立されたとされる寺。本尊の千手観音菩薩像は33年に一度御開帳されるのだそうです。
 当山は酒井家も毎年4月8日に祈願したそうで、昔から4月8日は高寺八講と称し、賑々しい祭礼が行われ、その前の6日に社家は獅子頭を舞いながら氏子をまわったといわれています。

 ちなみに「高寺八講」とは、この寺の近くにある雷電神社に伝えられる一連の舞の芸能のことで、新暦5月8日の例祭時に、社前に設けられた舞台で演じられます。
 この地はもと羽黒山修験の支配下にあり、かつては高寺山大権現のもとに高寺十三坊があって、この寺の法会の後に演じられた延年がいまに伝承されているとみられるものです。
 舞の当日、役者(舞い手)の一行は当番の家に集まり、そこで準備を整え、くねりと称する行列を組んで神社へ向います。途中で「薙刀舞」の役者が、薙刀を振る所作を演じます。神社に着いてから舞台で舞が演じられます。
 舞には、「大小舞」「薙刀舞」「花笠舞」「稚児舞」の4番がありますが、「花笠舞」は田楽踊りの型をよく残し、「大小舞」「稚児舞」には延年芸能の面影がよくうかがわれ、地方芸能史的に貴重な芸能といえるものです。

 写真の左手前に写っている石碑は、「故陸軍憲兵上等兵勲八等加藤磯吉之碑」。寺社の境内でよく見かけるような戦時中の個人の顕彰碑ですが、日清・日露戦争の頃のもののようです。

 写真中央は山門。
 山門の両脇に鎮座するのは、旧羽黒町(現鶴岡市)指定の有形文化財で、入って右手が「那羅延金剛」、左手が「密跡金剛」です。

shokoji30-2 201606  shokoji30-3 201606

fukurakuchinomiya2 201606

 下拝殿の左側にある長くて急な石段を登って、上の拝殿と大物忌神社、月山神社両所の本殿があるところを目指します。
 足に来る階段。数えて登ったら137段あった、と思う。

 たいした神社で、上にあるものも立派。高い山の上にこのようなものをつくっちゃうんだねえ。大げさに言えば、当時としては巨大といえる建物をあちこちに、長い年月をかけて造り上げてきた人類の精神性の凄さを知らされます。

 上の拝殿の右奥にあった遊佐町教育委員会製看板の記載事項を移記。

国登録有形文化財 鳥海山大物忌神社
  吹浦口ノ宮本殿 摂社月山神社本殿
  平成24年3月23日 登録
 本境内の一番奥、最高所に大物忌神を祀る大物忌神社本殿(東側)、月山神を祀る摂社月山神社本殿(西側)が南面して並び立っている。前身の本殿が宝永3年(1706)正月の火災で焼失し、宝永8年(1711)に庄内藩酒井家によって、現本殿が再建されたと伝わる。本殿後ろの斜面に石段が残っており、鳥海山詣りの道者たちは、この石段を通り、山に向かったと言われている。
 両社殿は、彫刻や脇障子の絵柄を除けば、全く同型、同大の一間社流造(いっけんしゃながれづくり)の建築である。もとは屋根が茅葺きであったが、昭和38年(1963)の千四百年祭の際、銅板に葺き替えられた。
 昭和14年(1939)に壁板や土台を取り替え、屋根を葺き替えるなど修理され、併せて周囲の中門廻廊や玉垣が造り替えられている。続いて中門の下方には、戦時下の昭和18年(1943)に、台湾産檜材を用いて、桁行5間、梁間3間の拝殿を建て、登廊で繋がれた。これら昭和戦前期建造物の設計は、東京小石川区の小林設計事務所小林謙一が担当した。江戸中期の地方色のある両本殿と、近代の端正な設計の拝殿等が破綻なく融和しているのは、設計者が内務省神社局、宮内省内匠寮の設計者の系譜に連なり、神社建築の設計手法に通じていたことをうかがわせる。
 周囲のタブノキや杉の社叢とあいまって、かって「出羽国一宮両所宮」とも称され、明治以降「国幣中社」に格付けされた大神の社殿としての風格が感じられる。

 フムフムですが、この場合、両所の本殿に入ってみないとそれらを体感できないのが残念。
 入れないんですよ。拝殿の中に両所に通じる階段があってそこから入るのでしょうが、それはできない雰囲気。外から見ようとしても囲いの柵があるために見えず。うーーむ・・・。


 石段を下りて戻り、下の社務所あたりをうろつくと、次のような看板もありました。

平成29年7月 鳥海山大物忌神社 本殿式年遷座 ご寄付のお願い
 当鳥海山大物忌神社は、奥州の最高峰鳥海山頂上に御鎮座以来、「延喜式」では名神大社に列し、出羽国一の宮として朝野の篤い尊崇をあつめてまいりました。
 数多くの古伝承や伝統行事を現在に伝える中、最重要なる祭祀として、古来より20年に一度、山頂の御本殿を建て替え、檜の香も芳しい新宮に神様をお遷しする「式年遷座」の制度があります。
 いよいよ次回の御遷座を来たる平成29年に控え、山麓の山形県・秋田県の皆様はもとより、当社をご参詣の皆様より御浄財を賜るべく、奉賛会を組織し事業の完遂に向けて取り組んでおります。
 ここにお志を賜りましたら幸甚に存じます。

 そうか、来年は式年遷宮だそうですよ、みなさん。
 それにしてもここは看板が充実していたなあ。(笑)

fukurakuchinomiya3 201606

fukurakuchinomiya1 201606

 初夏のある日、鳥海山大物忌神社の吹浦口ノ宮に行きました。
 まずは、二の鳥居の脇にあった木製の看板に「由緒」が書かれていましたので移記。これは2011年3月に、NPO法人遊佐鳥海観光協会が復元設置したもののようです。

出羽国一之宮 鳥海山大物忌神社 由緒(略誌)
御祭神  大物忌神(倉稲魂命・豊受姫神と同神) 月山神(月読命)
由緒  社伝によれば、第12代景行天皇の御代当国に現れ、神社の創祀は第29代欽明天皇25年(564)の御代と伝えられている。鳥海山は活火山で、噴火などの異変が起こると朝廷から奉幣があり鎮祭が行われた。本殿は山頂に鎮座し、麓に「口ノ宮」と呼ばれる里宮が吹浦と蕨岡の2ケ所に鎮座する。
 大物忌神社は貞観4年(862)11月官社に列し、延喜式神名帳には名神大社として、吹浦鎮座の月山神社と共に収載されている。後に出羽国一之宮となり、朝野の崇敬を集めた。特に歴代天皇の崇敬篤く、八幡太郎義家の戦勝祈願、北畠顕信の土地寄進、鎌倉幕府や庄内藩主の社殿の造修など時々の武将にも篤く崇敬されてきた。
 中世、神仏混淆以来、鳥海山大権現として社僧の奉仕するところとなったが、明治3年(1870)神仏分離に際し旧に復して大物忌神社となり、明治4年(1871)5月吹浦口ノ宮が国弊中社に列したが、同13年(1880)7月に山頂本殿を国弊中社に改め、同14年(1881)に吹浦・蕨岡の社殿を口ノ宮と称えて、隔年の官祭執行の制を定めた。
 昭和30年(1955)に3社を総称して現社号となる。山頂の御本殿は、伊勢の神宮と同じく20年毎に建て替える式年造営の制となっている。現在の御本殿は平成9年(1997)に造営された。
 平成20年(2008)には、山頂本殿から口ノ宮にいたる広範な境内が国の史跡に指定された。

 ふーん。出羽国の一之宮で、歴代天皇や時代の武将などが崇敬したと。そして、中世以降の権現信仰の時代を経て、明治維新の神仏分離令以降は神社なのね。


 次は、下拝殿のある広場に遊佐町教育委員会が立てた「鳥海山大物忌神社の吹浦口ノ宮境内」の金属製看板の内容を引用。

鳥海山大物忌神社の吹浦口ノ宮境内  平成20年3月28日
 鳥海山(標高2,236m)は、その山容の秀麗さから「出羽富士」とも呼ばれる信仰の山で、古くより、人々はこの山そのものを「大物忌神(おおものいみのかみ)」として崇めてきた。
 大物忌神の文献上の初出は、「続日本後紀」の承和5年(838)5月11日条「奉授出羽国従五位勲五等大物忌神正五位下」という記述である。朝廷は大物忌神を国家に関わる重要な出来事を予言する神、そして、祭祀を疎かにすると、噴火鳴動する恐るべき神として認識していた。
 延長5年(927)に、大物忌神は吹浦で並祀される「月山神(つきやまのかみ)」とともに「名神大(みょうじんだい)」となり(「延喜式神名帳」)、その神階を「正二位」にまで高めた。

 現在、鳥海山大物忌神社が鳥海山祭祀の中心的存在となっている。この神社は、鳥海山山頂の「御本殿」、そしてふたつの里宮「蕨岡口ノ宮」・「吹浦口ノ宮」の3社で構成される。とくに吹浦口ノ宮は、古代から鳥海山の神「大物忌神」と月山の神「月山神」を主祭神としてきたことから、「両所宮」と呼ばれてきた。この「両所宮」には、中世の鳥海山信仰の様態を示す貴重なふたつの文書(いずれも国指定重要文化財)が伝わっていることで知られる。

1 鎌倉幕府奉行人連署奉書
 承久2年(1220)に鎌倉幕府執権北条義時の命に基づき、藤原氏と三善氏が連名で北目地頭新留守氏に送った書状で、庄内地方最古の文書とされる。
 この書状は承久元年(1199)に発生した将軍源実朝の暗殺事件の影響で両所宮の社殿の造営作業が遅滞したが、これを速やかに行うよう北目地頭新留守氏に催促するものである。
2 北畠顕信寄進状
 正平13年(1358)に、南朝の重臣北畠顕信が天下再興と奥州の平安を祈願するために、由利郡小石郷乙友村(現在の秋田県由利本荘市)を「出羽国一宮両所大菩薩」に寄進したことを示す文書である。「両所大菩薩」とは、大物忌神の本地仏にあたる薬師如来と、同じく月山神の阿弥陀如来のことを意味する。

 中世に入ると、修験者たちは鳥海山山麓周辺に定着して修験集落を形成し、近世期以降、これらは鳥海山参りの拠点(登拝口)として機能するようになる。近世の吹浦には25坊・3社家・1巫女家が存在し、これらの修験世帯の人々が「両所宮神宮寺講堂」(現在の吹浦口ノ宮)で鳥海山祭祀を行った。彼らが継承してきた修験道の年中行事は明治初期の神仏分離を契機に、「管粥(くだがゆ)神事」(1月5日)、「大物忌神社例大祭」(5月4、5日)、「月山神社例大祭(御浜出(おはまいで)神事・玉酒神事)」(7月14、15日)として神式で執行されるようになり、今日に至っている。

 本境内の一ノ鳥居と二ノ鳥居をくぐり、参道を進むと右手に拝殿がある。これは桁行7間(約16.8m)、梁間5間(約9.4m)の豪壮な社殿である。さらに約百段の石段を登ると「大物忌神社」と「月山神社」の両本殿が並び立っている。5月4日の例大祭宵宮には、この両社の前で「吹浦田楽」(山形県指定無形民俗文化財)の花笠舞が奉納される。宵宮においては花笠を山吹や八重桜の生花で彩るが、5日の本祭りでは鮮やかな赤い造花を装飾に用いる。このように、本境内は、古代から現代に至るまでの鳥海山信仰の歴史・文化を伝える重要な史跡となっている。


 少し長いですが、概要がよくわかります。
 「吹浦田楽」が見たくなりました。

 その隣には新しい石碑。やや場違いではないかとも思えますが、いちおう碑文を移記しておきましょう。

故郷への報恩
 酒田市楢橋に新田家第17代当主として生を受け、若い頃、日本人の食を見つめ直し、養豚業に着手、平田牧場を創設し、苦心の末、日本一の三元豚を誕生させ、食肉の生産・加工・販売のみならず6次産業の魁たらんと邁進する中、郷土を見つめ、若人の育成の為、大学の設立に奔走、さらに中国ハルビンと酒田を繋ぐ物流ルート「東方水上シルクロード」の開設や北前船寄港地フォーラムの開催等を通じ、日本海沿岸地域の観光を振興、さらに台湾との相互乗り入れによる国際チャーター便の運航を実現することにより、国際交流の促進・観光立国の実現に寄与したとの功績により、平成24年国土交通省の交通文化賞を受賞。
 傘寿を迎え、今尚、観光振興などに情熱を持ち続けていられるのは、専ら、郷土を守る産土神のお陰と深謝し、雪見灯篭を奉る。
 記
 酒田市名誉市民
 株式会社平田牧場会長
 東方水上シルクロード貿易促進協議会会長
 東北公益文科大学理事長
 庄内空港環境整備基金理事長

  平成25年3月吉日
   酒田市楢橋字大柳○○○番地  新田嘉一 冨美子

 はあ、写真に写っているどっしりとした石灯籠2基。これの説明だったのですね。
kibijinja 201606

 鶴岡市三瀬にある気比(きび)神社を見てきました。

 はじめは裏口に当たる山側からアプローチ。
 神社の社叢は国指定の天然記念物になっています。しかし近時、その山の木々が枯れ始めていて、それは何十年か前、海側から吹く強い風を遮っていた保安林を解除して伐ってしまったことが遠因だという人もいるので、現場を見に行ったわけなのです。

 過去の栄華が偲ばれる立派な伽藍配置。しかしうら寂しいので、表のほうからも見ておこうじゃないかと、いったん車に乗って山の南東側に回ってみました。
 で、写真のこちらが表側。なかなか立派な神社ですよ、これは。

 「気比神社社記」の看板があったので引用しておきます。

気比神社社記
 上代より気比台池畔に保食(うけもち)大神、鎮座あり。
 後元正天皇霊亀2年(716)、越前国敦賀の気比神社より七座を此の地に勧請。上代よりの古社を摂社とし、祭神は七座五社27神を祀っている。
 社殿の造営は天文9年(1540)、尾浦城主武藤氏の武将高坂中務(なかつかさ)時次等、領内に奉加を令して之をなし、現在の本社殿等は宝永4年(1707)、庄内藩主酒井公の寄進並に御郡中の奉加及び氏子の寄附により造営され、世の興亡変伝にかかわらず領主、氏子の尊崇厚く、廃藩置県後明治9年(1876)、縣社に列せられ、例大祭は4月12日、県内外の崇敬人多く、境内約3万坪、本社の奥100米余の処に神池あり。周囲約900米、旱雨により涸溢(こいつ)なく、深浅測るべからず。
 原生の老樹池に影を映し、幽遂神秘時に山禽来って静寂を破る。境内に松、榊、白樫等有形文化財始め百種以上の樹種あり。
 旧社殿跡に源義経公の遺跡あり。又指呼の間、葉山中腹に義経記の薬師神社跡がある。
 羽黒旧記因由の八乙女神社、籠穴は葉山のかげ海に臨むところにあり、舟で詣ずることができる。

 うーむ、文語チックな文章で、途中から句点がなくなる。なので、引用に当たっては勝手に句読点を補っておきました。

 神社前の広場にある立派で新しめの「慰霊の碑」は、戦没者の名前が並ぶものの、なぜか戦後35年経った昭和55年の建立で、時代的にマッチしないような気がするのですが、どうなのでしょう。
 なんと、当時の内閣総理大臣鈴木善幸の書。うーむ、この脈絡にどういう背景があるのか、興味深いところデス。
zempoji 500rakan1 201606

 五百羅漢堂もすごかった。

 安政2年(1855)32世月巌不傳方丈代に落成。
 赤瓦葺入母屋の大屋根にて総欅造りの伽藍です。
 内陣正面には「お釈迦さま」、向かって右に「文殊菩薩さま」、左に「普賢菩薩さま」を拝し、「釈迦三尊」と称しております。
 釈迦三尊仏の前の10体のお仏像さまは、十大弟子と申し、他に6人の弟子を加えて「十六羅漢」と呼び、更に484人を加えて、古来より亡き人を偲ぶ「五百羅漢さま」と言われています。
 この五百羅漢と建物は、北海道元松前郡福山の豪商、伊達林右エ門、栖原六右エ門両家にて寄進されました。
 当時の北前船航路による交流と繁栄が偲ばれます。

zempoji 500rakan2 201606

 ひとつとして同じ顔がない――ということで、どれもこれも表情が豊か。
 これらの7割ぐらいは修復が必要だそうで、これから東北芸術工科大学の協力を得てとなりの三十三観音堂に運んで修復作業をすることになっているとのことでした。
zempoji 5junotou 201606

 羽黒山の五重塔も幽玄で立派だけど、善寶寺の五重塔だって立派だぞ。

 「魚鱗一切」の大供養塔として明治16年(1883)、33世水野禅山方丈の発願により、建立に着手。
 10年後の明治26年(1893)34世禅法方丈代に落成。
 高さ38メートル余、総欅造り、銅板葺きの大塔です。
 内陣壇上の御仏体は、正面「釈迦如来」、東方「阿閦如来」、西方「阿弥陀如来」、南方「宝勝如来」、中央金色円柱は「大日如来」を擬して仏の五種知慧「五智」を現しています。
 外部には西遊記で知られる三蔵法師、深沙大将、又、十二神将が四方に彫り込まれています。
 この大寶塔は、善寶寺守護両大龍王尊霊場の象徴となっています。

zempoji sanzou 201606

 この五重塔、建築物としても価値あるものなのでしょうが、まわりに施されている彫刻がすごい。
 これが三蔵法師の彫り物で、実に精巧。百年以上も前に彫り込まれた「外壁」の彫刻が、よくぞ今までご無事で残されたものだと驚いてしまいます。
zempoji bishamon 201606 zempoji idaten 201606
毘沙門天像(左)と韋駄天像。

 「毘沙門天」を右に、「韋駄天」を左に・・・か。
 山門には普通なら仁王様がいるものなのだけどな。

 と思っていると、2像の前には種明かしとなる文が添えられていました。

毘沙門天
 仏教では人々を守る四天王の一神であり、中国の甲冑装束を身にまとい、左手に宝塔、右手に三叉の槍を持ち、古より軍神として武士の厚い信仰を得ている神様です。
 日本では我儘増長の心を戒める七福神の一神となっております。
 山門には通常、仁王像が安置されることが多いのですが、善寶寺の山門を守るこの毘沙門天様と韋駄天様は、もとは羽黒山におりました。
 明治元年に廃仏毀釈を逃れて善寶寺に安置され、山門の守護をしていただいております。

 ほーらなっ。明治元年。廃仏毀釈を逃れて。羽黒山からねぇ。

韋駄尊天
 禅宗ではお寺の玄関に安置されることが多く、伽藍(建物)を守護する神様です。
 昔、悪魔がお釈迦様の遺骨(仏歯)を奪い去った時、即座に走って取り返したことより、走る神、盗難除けの神とされております。足の速い人を、「韋駄天走り」とよく言うのはこのためです。
 また、韋駄天様がお釈迦様のためにあちこちを駆け廻って食物を集めたことに由来して「御馳走」という言葉の語源になったとも言われています。
 善寶寺では山門と受付前に2体の韋駄天様がおり、毎朝炊き上がったご飯を献じ、読経をしております。毎月5日が韋駄天様のご縁日です。



 ここで、善寶寺をご紹介。

 その昔、平安時代の頃に「法華験記」や「今昔物語」にも見える妙達上人という高僧がこの地にわたり、草庵を結び、名付けて「龍華寺」としたのが善寳寺の始めです。
 そして、室町時代に曹洞宗の太年浄椿(たいねんじょうちん)禅師に至り、寺屋を建立、山号を龍澤山、寺号を善寳寺と改められました。
 その後、歴代住職は寺門の興隆に尽力し、江戸時代中期、第20世霊感応伝(れいかんおうでん)大和尚の代には本堂庫裡等の整備がなされ、今日の基礎が築かれました。
 更に第26世大雲祥嶽(だいうんしょうがく)大和尚の代に至り、北廻り航路の発展と共に善寳寺の信仰は一段と広まり、明治時代に入り、第33世月円禅山(げつえんぜんざん)大和尚の代には、漁業関係者の発願による我が国唯一の「魚鱗一切の供養」の五重塔が建立され、現在の偉容が整いました。
 現在、平成の世になりましても、善寳寺は日本有数の大祈祷道場として龍神様の霊験新たかに、いまなお多くの人々の信仰を受けています。 (善寶寺のホームページから引用)

zempoji sammon 201606

 で、山門(三門)。

 文久2年(1862)33世水野禅山方丈代に再建。
 総欅造り、銅板葺きの楼門です。
 楼上には、正面に「宝冠釈迦如来」、両脇には「十六羅漢」を安置。
 上部に高く掲げられている「龍澤山」の大扁額は、郷土の傑僧興聖老卵の麗筆です。
 又、二大尊天である「毘沙門天」を右に、「韋駄天」を左に配し、土地建物の守護と法食常転を求むる為に安置。
 この山門は地元名工の剱持嘉右エ門(藤吉)が棟梁として正面円柱の唐獅子の彫刻をてがけ、後方の唐獅子は、弟である奥山富五郎の作であり、互いに技を競った力作であります。――とのこと。

 なるほどなあ。解説付きだといろいろわかって面白い。

zempoji soumon 201606

 龍澤山善寶寺に行ってきました。
 庄内地方の城下町鶴岡市北西に位置し、およそ1100年の歴史をもつ大祈祷道場です。
 海の守護・龍神様の寺として北海道、東北、北陸をはじめ全国に多くの信者を有し、特に漁業関係者から絶大な信頼を得ているそうです。
 山門、五重塔、龍王殿などの伽藍は壮大。見るものすべてがデカくて、それらが1か所にまとまってあるあたり、値打ちのある寺だなと思わせるに十分です。この価値をもっと多くの人たちに知られてもいいはずだと思うのだけど、どうなのでしょう。

 見るべきものはいろいろあるけど、まずは「総門」。
 門の右手に「藤沢周平 その作品とゆかりの地」という立て看板があり、次のように記されていました。

龍を見た男 龍沢山善宝寺
 ――何かが、いる。
 と思ったのは、おりくの後から歩き出そうとしたときである。源四郎は立ち止まった。自分の顔色が変わるのがわかった。池の、青みどろに隠れた深みの底あたりに、何かがいた。源四郎の20数年にわたる漁師としての勘が、その気配を掴んでいる。それは魚ではなかった。もっと巨大なものの気配だった。
 「あんだ、何してっどご?」
 訝し気なおりくの声に、源四郎は慌てて歩き出した。初めて心の中に懼れのようなものが生まれていた。

 この総門を潜れば、左手に五重塔、右手には五百羅漢堂、そして正面には山門が、それぞれそびえています。