福祉施設にある碑をもうひとつ。それは、沖縄市胡屋の沖縄長寿センター「緑樹苑」の敷地内にあるという「山内盛彬生誕120年記念「ひやみかち節」歌碑」です。
 先に今帰仁村謝名で「平良新助翁の像」と「ヒヤミカチ節歌碑」を見てきましたが、沖縄県民にとってこの歌は大切なものなのだろうなと、改めて思ったところ。
 事前情報によれば、「緑樹苑」は山内盛彬が1979年に入所した老人ホームで、碑は山内氏の生誕120年を記念して、2011年3月27日に除幕されたものだとのこと。

 沖縄市胡屋7丁目にあるという「緑樹苑」にたどり着くまではちょっぴり苦労。ナビがなければおそらく到達できなかったと思います。狭い道を行きつ戻りつして、ああここかと。苑の手前にあった来客駐車場にクルマを停めて歩いて行きます。
 苑内は広く、様々な福祉施設が並んでいます。おそらくこれらすべては緑樹苑の経営でしょう。
 緑樹苑? あれ、ここ、さっきの比屋根のケアハウスと同系列ってことか。ナルホドなあ。

 歌碑は、広い敷地の真ん中、樹木や植栽、いくつかの鉢植え、果ては石敢當まで配備されて、手入れが行き届いた形で建っていました。
 表面には「ひやみかち節」の歌詞のほか、その五線譜、山内盛彬の詠んだ琉歌で構成。
 五線譜の楽譜付きというのがユニークで、テンポ60のAnimato(元気よく、生き生きと)でうたうことまで付記されています。
 そして歌詞。

ひやみかち節
   作詞  1番 平良新助  2番3番 山内盛彬
   作曲  山内盛彬
 1 七轉び轉で ひやみかち起きて わしたこの沖縄 世界に知らさ
 2 花や咲き美さ 音楽や鳴り美さ 聴かさなや世界に 音楽の手並
 3 我身や虎だいもの 羽つけて給ぶれ 波路パシフィック 渡て見やべら

 さらに氏の琉歌。
  「滅びいく文化 忍で忍ばれめ もちと命かきて 譜文に遺くさ」
   (山内盛彬翁80才詠・自筆)
 歌意は、「滅んで無くなる文化は忍ぶだけでは忍ぎきれない。自分の持てるものすべてと命を賭けて譜面として残したい」というところでしょうか。

 碑の裏面には、次のような説明が記されており、建立に至った経緯や山内盛彬の人となりについて理解をしたところです。

 コザ市名誉市民の山内盛彬翁は齢90にして妻ツルとともに昭和54年に開設した緑樹苑に1番目に入居された。1年8カ月間の苑生活を過ごされるなかで、行事の折々には王府おもろ等の古謡を謡い、利用者和睦につとめられた。
 また、過酷な歴史に翻弄された郷土を琉球禮楽によって復興するという崇高な使命感に駆られ、その旺盛な琉球音楽研究伝承活動は多くの人々に希望と勇気を与えた。
 時あたかも本年は、翁の生誕120年の寅年にあたり、奇しくも翁の作りし「ひやみかち節」響む甲子園で春夏連覇が成し遂げられた。まさに紫紺と深紅の優勝旗が波路パシフィックを渡ったのである。
 よって翁の遺徳を偲ぶ歌碑を建立する。
  山内盛彬歌碑建立実行委員会  委員長 安仁屋眞昭
  社会福祉法人緑樹会  理事長 金城和昌


 甲子園の春夏連覇とひやみかち節を関係づけたあたりがこの碑の真骨頂でしょう。

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 沖縄市比屋根(ひやごん)にある社会福祉法人緑樹会の「ケアハウスてぃんさぐぬ花」の敷地内に「てぃんさぐぬ花歌碑」があるというので見に行きました。
 事前情報では、施設敷地の角地に碑があり、2014年3月に除幕式が行われたとのこと。

 住所をナビに設定して行ってみるとその場所は、R329の比屋根交差点から県道85号を泡瀬方面へ進み、道路の右手、「居酒屋味自慢」の黄色い看板(これは目立つ!)があるあたり。
 その施設は3階建ての大きなもので、敷地の北西角地に碑がありました。

  てんしやごの花や 爪先に染めて 親の寄せ言や 肝に染めれ

 ――と、見事な草書体で刻されています。
 しかし、町の中にあるケアハウスの前で碑の写真を撮っている人間というのは、全体の風景の中でかなり異質な印象。おれは介護施設と居酒屋との狭間で何をやっているのだろうという自己嫌悪を感じます。まあ、でも続行するからこそ自分なワケで。

 碑の左脇にあった説明書きには、次のとおり。

 この歌碑の琉歌は、読人知らずで琉歌特有の表記を施されている。詠み、謡うなど音声を施す場合は、「てぃんさぐぬはなや ちみさちにすみてぃ うやぬゆしぐとぅや ちむにすみり」となる。
 てんしやごとは、鳳仙花のことで、本来の花の色は赤だが、現在は白、ピンク、紫のものがあり、また、赤や紫と白の絞り咲きもある。爪に染めるので爪くれないという名もある。
 果実は、熟すと果皮の内外の細胞の膨圧の差によって弾性の力を蓄積し、弾けて種を遠くに飛ばす性質がある。
 歌の意味は「鳳仙花の花は爪先に染めて、親の教えは心に染めれ」である。
 沖縄の民でこの歌を知らない人はいない。
 親の教えとは、人の道である。
 人の道とは、弱い人を助けて、自立して歩む道である。
 民は「孝順父母」のこころを「てぃんさぐぬ花」として結実させ、礼楽の極みとした。
 そのたおたおとした旋律は、すべての人の唇に乗り、歌い継がれ、血肉化し、はたして国土の悠久の魂に昇華したのである。
 社会福祉法人緑樹会は、「ケアハウスてぃんさぐぬ花」の落成を記念し、この琉歌を茲に刻する。


 「人の道とは、弱い人を助けて、自立して歩む道」あたりが福祉的でいいですね。
 この碑はケアハウスの落成記念につくられたものでした。
 見事な草書体は、川上秀苑という書家によるものです。

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 内間御殿に来るのは2回目。1回目のときは単に御殿を見に来ただけだったので、サワフジの木などは眼中にありませんでした。旅なんて、そんなものですよ。知れは知るほど見たくなるものです。
 で、今回も敷地を囲む石垣に沿って駐車させてもらい、前回同様、子どもたちの遊ぶ声を聞きながら御殿へ。あいにく石垣調査中で、敷地内にフェンスが立てられ手前と奥が分断されています。
 入り口に写真や絵地図の入った「内間御殿の概要」と「内間御殿整備の歴史」のふたつのコンクリづくりの案内板があったので、日本語テキスト部分を以下に移記しておきます。



内間御殿の概要
 内間御殿(うちまウドゥン)は、琉球王朝第二尚氏の始祖、金丸(のちの尚円王)の旧宅跡地に創建された神殿(東殿)を中心とする祭祀施設です。
 1454(景秦5)年 、尚泰久が王位に即位すると、金丸は内間の領主となりますが、それから王位につくまでの15年間この地に住んでいたと考えられています。尚円王は即位から7年後の1476(成化12)年に亡くなりますが、その後約190年経った1666(康煕5)年頃に国相・向象賢(羽地朝秀)の進言によって、旧宅に茅葺の建物、東殿(東江御殿)が建てられました。これが内間御殿の整備の始まりとなります。その後は、幾度かの改修工事を経て琉球王国の国家的聖地として整備されました。
 内間御殿は、国家的祭祀だけでなく、地域や村落の祭祀を執り行う場所としても利用されてきたことから、幾つもの信仰に支えられた神殿であったことが窺えます。
 このように内間御殿は、沖縄における祭祀信仰の実態を知る上で極めて重要な遺跡として、2011(平成23)年2月に国の史跡に指定されました。

内間御殿整備の歴史
 内間御殿の整備は、尚円王没後約190年を経た1666(康煕5)年頃に国相・向象賢(羽地朝秀)の進言によって、旧宅に茅葺の建物、東殿(東江御殿)が建てられたことから始まります。
 1679(康煕18)年東殿の周囲を竹牆(ちくしょう、竹垣)としましたが、1689(康煕28)年に東殿が破損したため樫木で改修し、瓦屋根に葺き替え、村人を看守につけました。
 続いて1706(康煕45)年には、西原間切に住む人々が資金を出し合い、東殿の北側に茅葺の西殿(西江御殿)を建てたところ、王府はこれを関連施設として追認し、看守(御殿守)を配しました。
 ところが1735(雍生13)年、東殿に賊が入り、宝枕が盗難に遭ったのをきっかけとして、管理の強化が図られることとなります。1737(乾隆2)年には、西殿が瓦葺に改められ、周囲に竹牆が備えられました。1738(乾隆3)年には東殿の屋敷囲いを竹牆から石牆へと改造し、本門と脇門を設けました。また、改修の経緯を刻んだ先王旧宅碑記を中庭に建て、本門の軒には尚敬王の自筆の扁額を掲げました。この改修により最も重厚な姿となりました。
 両御殿は、その後の沖縄戦で焼失しましたが、石牆や先王旧宅碑記の台座などは残っています。戦後の1951(昭和26)年、大屋門中やハワイ在住の一門らによって東殿跡にトタン葺に改築。1974(昭和49)年には、東殿が大屋の当主中山正雄氏によって、トタン葺の神屋から、現在のブロック造りの神屋(2間×2間半)に改修されました。
 今後の整備については、戦前に撮影された写真を中心とする資料や、発掘調査の成果を基に復原・整備を行っていきます。

 1666年に東殿、1706年に西殿がつくられ、フェンスははじめはなかったのが、その後竹、石へと変わっていったことがわかります。戦後の御殿はトタン葺だったというのも逸話の一つでしょう。

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 そして、肝心のサワフジの木がこれ。
 木のそばには平成26年3月に西原町教育委員会が建てた「町指定天然記念物 内間御殿のサワフジ(サガリバナ)」の説明書きがあり、「地元では、その花の形状が“鳩目銭をぶら下げているのに似ている”ことから、“銭掛け木(ジンカキーギー)”とも呼ばれています。2012(平成24)年5月8日に、西原町の天然記念物に指定されました。」との記載がありました。
 ん? でも、樹齢400年とは書かれていなかったな。

 これにて西原町は終わり。次は沖縄市の泡瀬方面へ。沖縄市で歌碑を2つ見ます。


 で、「サワフジの詩」歌碑。
 「比嘉春潮顕彰碑」が図書館の建物の左手(西側)にあるのに対し、こちらのほうはそれの南側、道路に近い敷地の南西角地に建っていました。

 こういう碑があると知ったのは、沖縄タイムスの次のような記事でした。

西原町でお披露目(沖縄タイムス 2015年7月25日)
 内間御殿にある樹齢約400年のサワフジに命や平和の尊さを託して歌った「サワフジの詩(うた)」の歌碑が、このほど西原町立図書館に完成し、17日に除幕式があった。
 昨年9月に歌碑建立期成会(波平常則会長)を立ち上げ、同年11月のチャリティーコンサートなどで計180万円を集めた。
 「サワフジの詩」は1997年、町嘉手苅出身で元沖教組委員長として復帰運動にも取り組んだ故平敷静男さんが作詞し、石川静枝さんが曲を付けた。
 平敷さんの長男の好宏さんは「家族として誇らしく、うれしいです。オヤジは何て幸せなんだろう」と頭を下げた。
 「サワフジの詩」は、若柳喜之介日舞教室の新川愛子さんが日舞にしたほか、手話ダンスサークル「月桃」で大城洋子さんが振り付けを教えている。

 ――ということで、「サワフジの詩」は知らなかったのですが、1997年につくられた比較的新しいものなのですね。
 林美伶という台湾出身の歌手が歌いCD化されているとのことです。

 碑のほうは、先の比嘉春潮顕彰碑と同じような白っぽい石にそのまま詩が刻されています。
 その内容は次のとおり。

サワフジの詩   作詞 平敷静男  作曲 石川静枝
  夜露に咲いたサワフジが  内間御殿の夕まぐれ
  香りほんのりかぐわしく  寄っておいでと呼んでいる
    戦もしのぎよみがえる  命の尊さかみしめて
    平和をねがうサワフジの  姿うないの心意気
  夜のしじまのその中で  清らにさけるサワフジの
  明日に夢見るあですがた  うないの姿を写しみる
    けだかく白きサワフジは  文教の町西原の
    永久(とわ)の栄えを招く花  実(げに)もろびとの愛の花

 七五調で、用語もヤマト風。ウチナーグチっぽいのは「うない」(女性の兄弟、姉・妹の意)ぐらいでしょうか。
 碑の裏には、「この歌碑は、故平敷静男氏の「サワフジの詩」に込められた平和の心を顕彰するために建立する」との記載があり、2015年7月吉日の建立です。
 揮毫者の新川善一郎は、西原町文化協会会長。

 ところで「サワフジ」って何かわかります? これ、「サガリバナ」のことなのです。おれは知らなかった。
 サガリバナは、日本では奄美大島以南に自生する常緑高木で、マングローブの後背地や川沿いの湿地に生育します。総状花序が垂れ下がり、花は横向きにつく。開花時期は6月後半から真夏まで。たった一夜だけ咲き、芳香を放って、夜明けとともに散ってしまうので、「幻の花」といわれる。花弁は白または淡紅色で4枚あり、おしべは多数。――とのことです。

 「サワフジの詩」が「内間御殿にある樹齢約400年のサワフジ」を歌ったものと知れば、内間御殿にも行ってみたくなるのが人情というもので。
 町立図書館からはすぐ近くだし、寄ってみることにしましょう。


 次は、西原町へ。「サワフジの碑」があるという西原町立図書館を目指します。
 図書館に着いてまず目に入ったのは別の碑でした。ん?
 それは「比嘉春潮顕彰碑」でした。おお、比嘉春潮。

 比嘉春潮(1883~1977)は、沖縄郷土史家であり歴史学者。沖縄県庁職員を経て、1923年に上京、改造社の編集部に勤めながら、沖縄学の第一人者だった伊波普猷の影響を受けて沖縄研究を始め、また、柳田國男らをメンバーとする南島談話会に加わって民俗研究に取り組んだ人です。
 比嘉についてはかつて「比嘉春潮 ~沖縄の歳月 自伝的回想から」(比嘉春潮著、日本図書センター、1997)を読んでいるので、ある程度は知っているつもりです。
 また、伊波普猷関連の書物を読むと、この人が頻繁に登場します。東京大空襲後、自宅を焼け出された伊波が、比嘉の自宅に身を寄せて生活していた時期があったからです。

 その彼の顕彰碑がここにあるとは知りませんでした。
 きれいに刈り込まれた植栽が配された中に、半円形の形をした白っぽい色の石に「ふるさとを愛した篤学・反骨の研究者 比嘉春潮顕彰碑」と彫り込まれ、その下部に黒石の説明板が嵌め込まれ、日本語と英語の文章が刻まれていました。
 まず、管理がとてもよさそうです。
 そして、これまでいろいろな碑を見てきましたが、柔らかめの石に直接彫り込むのならば、風化によって字が読めなくならないよう大きな字を刻するべきだし、また、多くの文字を記したいのであれば、堅い石を埋め込んでそれに記したほうがいいと思ってきたところで、そういう意味では、この碑のつくりはとてもいいと思います。

 下部の説明文(日本語部分)は、次のとおり。

比嘉春潮顕彰碑
 比嘉春潮は、沖縄の歴史や民俗の研究に大きな足跡をのこした偉大な研究者です。
 1883年、西原間切(現西原町)翁長で生まれました。沖縄県師範学校を出て小学校長、県庁の役人、新聞記者をしたあと41歳のとき、上京。その間、伊波普猷と出会って沖縄歴史への関心を深め、東京では柳田国男のもとで民俗研究に励んで「翁長旧事談」をはじめ郷里西原関係の研究も数多く発表しました。
 敗戦後は、在京の伊波普猷、仲原善忠らと共に沖縄人連盟の設立、沖縄文化協会の創設にかかわり、郷土沖縄の復興支援と沖縄研究の基礎づくりに尽力するとともに、自らも農村経済史や文献研究で優れた業績をのこしました。
 温厚篤実な人柄と謙虚な研究姿勢は多くの人から深く敬愛される一方で、権力におもねることのない硬骨の研究者としても知られ、主著「沖縄の歴史」は、庶民の側から書かれた初めての歴史書として高く評価されています。1977年逝去、享年94歳。
 ここにふるさとを愛した篤学・反骨の研究者・比嘉春潮の遺徳を称え、功績を後世に伝えるためにこの碑を建立します。
  2006年3月31日  比嘉春潮顕彰碑建立期成会

 碑の裏面の記載により、期成会が起工し町に寄贈されたこと、2014年2月10日に改造・移設されたことがわかります。移設とは、どこから移設したのだろうな。
 なお、揮毫者の豊平峰雲は、1942年石垣市新川生まれ、93年沖縄タイムス芸術選賞の大賞受賞、2007年には沖縄県文化功労賞を受賞した人。


 島田叡に関するもっとすごい碑が、「兵庫・沖縄友愛グラウンドの碑」の近くにありました。ははあ、こっちがメインでしょうね。
 「第27代沖縄縣知事 島田叡氏顕彰碑」の標柱が建っていて、トップにステンレスの球体を冠したモニュメントがどんと建てられ、その四方に説明板が配されているといった、立派なものです。
 正面にある説明板には、島田の顔写真入りで次のように記されていました。

《建立の詞》
 1945年1月、島田叡氏は風雲急を告げる沖縄に、大阪府内政部長から第27代縣知事として赴任しました。その頃沖縄は、前年の「十・十空襲」の被災につづき、住民を巻き込んだ国内唯一の地上戦が始まろうとする直前でした。それは死を賭した「決断」の着任でした。
 以来、5か月に及ぶ苦難な戦下の沖縄で県政を先導し、献身的にしかも県民の立場で疎開業務や食糧確保につとめ、多くの県民の命を救いました。
 最後の官選知事・島田叡は、沖縄戦で覚悟の最期を遂げ、摩文仁の「島守の塔」に荒井退造警察部長をはじめとする旧県庁殉職職員(469柱)とともに祀られています。沖縄県民からいまも「沖縄の島守」として慕われている所以です。享年43歳(兵庫県神戸市須磨区出身)
 また島田叡は、高校、大学野球でフェアプレーに徹した名選手でもありました。野球をこよなく愛し、すべてに全力を傾けるそのスポーツ精神は、県政の運営にも通底し、つながっていたと思われます。1964年に、故郷・兵庫県の「島田叡氏事跡顕彰会」から沖縄へ「島田杯」が贈られました。そのことが高校球児に甲子園への夢を育み、大きな励みになりました。
 1972年、「本土復帰」の年に兵庫と沖縄両県は友愛提携を結び、兵庫県民からの寄贈「沖縄・兵庫友愛スポーツセンター」をはじめとするさまざまな交流事業を展開してきました。
 この島田叡知事のご縁でもたらされた兵庫・沖縄両県のこれまでの交流の歴史と絆は、私たち県民の誇りです。島田叡知事の心を表す「友愛の架け橋」は、これまでも、これからも沖縄県民に引き継がれ、次世代を担う若者たちにとって、大きな宝になるものと信じます。
 ここ沖縄県野球の聖地・奥武山にこの碑を建立し、県民のための県政を貫き、県民とともに歩み、沖縄の地に眠る島田叡氏の事跡を顕彰すると同時に、併せて世界の恒久平和を心から祈念します。
  2015年6月吉日  島田叡氏事跡顕彰期成会  会長 嘉数昇明
《碑の構想》
 祈り(合掌)、命(命どぅ宝)、平和(球、同心円)、希望(両手)、絆(友愛)


 これの建立も2015年6月。
 島田の顕彰碑がここに建っているのは、島田が愛した「野球」つながりで、沖縄県の野球の聖地である奥武山公園だからだということです。
 また、モニュメントのコンセプトもしっかり記されているのはたいしたもの。
 なお、碑を建立した「事跡顕彰期成会」は、県高野連、県野球連盟などの野球関係者が多く含まれているようで、会長の嘉数昇明氏は、母は沖縄女子短期大学の創設者、那覇青年会議所理事長や県議会議員を経て、稲嶺県政時代の副知事だった人のようです。

 ほか、3方にある碑の内容は、順不同で次のとおり。

《至誠の人・島田叡の素顔》
「座右の銘・愛蔵書」
○「断而敢行鬼神避之」(「史記」李斯列伝より)
 “断じて行えば鬼神もこれを避く”
○「西郷南洲翁遺訓」「葉隠」(沖縄赴任に携行した愛蔵書)
「敢然と沖縄に赴任」
○「沖縄も日本の一県である。誰かが行かなければならない。断るわけにはいかんのや。誰か行って死んでくれとは言えない。」
○官尊民卑の時代、同胞意識を持つ知事
 米軍に制海空権を握られ、県外逃避や戦列離脱者が相次ぐ困難の状況下での赴任。
 「沖縄の人も同胞じゃないか、同じ人間じゃないか・・・という気持ちがあった。そう考えていなければ、激戦地となること必至のあの時期に沖縄にはこない」(元県庁職員の証言)
「極限の沖縄戦のなかで「生きろ!」」
○玉粋・自決という言葉が飛び交う戦場で、「最後は手を上げて(壕を)出るんだぞ・・・。生きのびて、沖縄再建のために尽くしなさい。」と戒める。
「花も実もある親心」
○「(戦争で)共に死ぬ運命共同体の意識の中で、県民を不憫に思い統制の酒、たばこの増配や村芝居を復活させた。それが島田叡知事の親心です。」(元県庁職員の証言)

詩碑《追憶の詩》
北へ(須磨・兵庫県)
  ふるさとの いや果てみんと 摩文仁岳の
  巌に立ちし 島守のかみ   (詠人 仲宗根政善)
南へ(摩文仁・沖縄県)
  このグラウンド このユーカリプタス
  みな目の底に 心の中に収めて
  島田叡は沖縄に赴いた
  1945年6月下浣
  摩文仁岳近くで かれもこれも砕け散った   (詠人 竹中郁)

《野球人・島田叡の球魂》
「スポーツ・敢闘精神」
○「劣勢としりつつも、なんとかならないかと知恵をしぼり、あくまで全力を傾けベストを尽くす。これがスポーツ精神だ。叡さんは生涯、それを実行した」(三高野球部球友の回想)
「俊足、強肩、巧打の花形選手」
○旧制第二神戸中学(現・県立兵庫高校)、第三高等学校(現・京都大学教養部)、東京帝国大学(現・東京大学)で野球部レギュラー/主将としてチームを牽引。東大3年時には三高の監督も務めた。精神的野球ではなく、頭とスピードでやる島田式科学野球を実践。常に本塁生還をめざした。
○野球殿堂博物館(東京ドーム)には、戦没野球人の一人としてその名が刻まれている。
「沖縄県高野連に贈られた島田杯」
○「島田さんとスポーツ精神とは生涯を通じて一貫したものである。この機会に・・・島田杯を沖縄の高校野球連盟に贈呈する」(昭和39年兵庫県「島田叡氏事跡顕彰会」)
 さらに島田氏のご縁で、千葉県からも島田杯が贈られている。それらの優勝杯は、沖縄県高校野球の隆盛に寄与している。
「球場に島田知事の名前を」
○旧制三高時代の1年後輩で、野球部で2年間一緒だった東大教授/英文学者・中野好夫氏(沖縄資料センター設立者)は生前、沖縄戦で戦死した先輩を偲んでこう要望した。
 「将来、沖縄に野球場が出来るのなら、戦時中に住民のために奔走した故島田叡さんの名を記念につけてもらえないだろうか」



 沖宮から公園内を、クルマを停めているゆいレール奥武山公園駅方向に歩いてきたところ、「兵庫・沖縄友愛グラウンド」と刻された碑を発見。ほほう、兵庫?と思って近寄ってよく見ると、それには「島田叡氏を縁とする深い絆」とも記されていました。

 そうか、終戦時に沖縄県知事だった島田叡ね。島田知事は、前任者の泉守紀知事が沖縄が戦地になることを予想して本土へ長期出張ばかりするなどまったくの逃げ腰だったのとは違い、沖縄県民のために決然として指揮に当たり、摩文仁の土となった人物で、今でも県民の絶大な人気を保っています。その島田は兵庫県の出身なので、このような形となって結実したということなのでしょう。
 碑の礎石には次のような説明書きがありました。

 沖縄がまさに激戦地になること必至の状況下の1945年1月、沖縄県最後の官選知事として、島田叡(あきら)は死を覚悟で決然と沖縄に赴いた。戦禍の中において県民を守るため、死を賭して尽力し、「沖縄の島守」として慕われる。最後は県民と運命をともにする。享年43歳(兵庫県神戸市須磨区出身)
 その島田叡知事の縁によりもたらされた至誠と信頼。そして尊敬を礎とする兵庫・沖縄の交流の歴史は、1972年「復帰の年」に締結された「兵庫・沖縄友愛提携」を機に一層深まり、数々の交流事業が展開された。
 かつてこの地には、兵庫県民から贈られた「兵庫・沖縄友愛スポーツセンター」があり、多くの若者・県民がスポーツやレクレーションを楽しんだ。
 このグラウンドは、スポーツをこよなく愛した島田叡知事が青少年の嬉戯する姿を思い描き、将来にわたって、なお一層の両県の「絆」が発展することを祈念して「兵庫・沖縄友愛グラウンド」と呼称するとともに、両県の「友愛の証」とする。
  2015年6月吉日  島田叡氏事跡顕彰期成会

 島田を縁として、沖縄の本土復帰の年に「兵庫・沖縄友愛提携」がなされ、この地に兵庫県民から「兵庫・沖縄友愛スポーツセンター」が贈られた経緯があり、その側にあった多目的広場を「兵庫・沖縄友愛グラウンド」と改名した――ということのようです。碑の後ろにあるグラウンドがそれですね。
 1年半ほど前につくられた碑で、まだ新品です。

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 また、近くには「沖縄・兵庫友愛スポーツセンター跡地」の碑がありました。文章のほかに、在りし日の建物の写真とレリーフが添えられていました。その記載内容は次のとおり。

 沖縄・兵庫友愛スポーツセンターは、日本復帰後の昭和50年(1975年)6月、兵庫県民から「友愛の証」として沖縄県に贈られた。
 そして、スポーツやレクリエーション活動の拠点として、沖縄県のスポーツの振興に寄与するとともに、兵庫県との友愛の象徴として中心的な役割を果たした。
 沖縄・兵庫両県の友愛の絆が、より深く恒常的なものとなることを祈念し、ここに記念碑を建立する。
  平成21年3月  沖縄県教育委員会

 沖縄・兵庫友愛スポーツセンターは、建設から32年が経過して施設の老朽化が著しいことから、利用者の安全面を考慮して平成19年に閉鎖、21年2月に解体が終了しました。


 あわせて、この碑が建てられたことを報じる2015年6月28日付けの琉球新報の記事を、以下に付記しておきます。

奥武山公園に「友愛」の広場 島田氏顕彰事業
 沖縄戦当時に県知事を務めた島田叡氏の出身地である兵庫県との「友愛の証し」として、奥武山公園の多目的広場が「兵庫・沖縄友愛グラウンド」に改名された。広場横には記念碑が立ち、バックネットに看板が設置されている。改名は島田氏の顕彰事業の一環。
 改名を記念し、県還暦軟式野球協議会は27日、同グラウンドで70歳以上の選手ら45人による「古希野球大会」を初開催。3チームが参加しリーグ戦を行った。協議会の嘉納勝会長は「島田さんも喜ぶと思う。野球を通して恩返しをしたい。将来は80歳の米寿野球大会を開きたい」と話した。



 沖宮は正直言ってイマイチだったかなぁという感想を抱きつつ、正式にはこちらが表参道だったと思われる石段を下りて園内道路へとたどり着くと、おやまあ、すんげえ立派な碑群があるではないか。
 これもまたノーマークでしたが、それは「船越義珍顕彰碑」。前日嘉手納で見た「チャンミーグヮーの碑」に続く空手系の碑の連続めぐり遭いはちょっとうれしいサプライズです。

 船越義珍については「義珍の拳」(今野敏著、集英社文庫、2009)を読んでおり、若かりし頃は来る日も来る日もナイファンチという基本の型を練り続け、後に「近代空手の父」と呼ばれるようになった経緯を知っていたので、思わずじっくりと見入ったところです。

 正面には「空手道松涛館流祖船越義珍先生の諭 空手に先手なし 沙門崇源 書」と刻された主碑がどどーんと。カッコいいなあ。そしてそのすぐ右隣りには次のように書かれた副碑が建っていました。

 空手道松涛館流祖、船越義珍先生は、明治元年10月10日沖縄県那覇市首里に生まれ、雅号を松涛と称した。唐手を安里安恒・糸洲安恒両師に学び、30有余年教壇に立ちながら沖縄唐手有志と広く交わり、沖縄尚武会を開き、沖縄唐手研究会に参じ、首里城で昭和天皇御前演武を指揮するなど、唐手の普及と統一に力を尽くした。
 大正11年体育展覧会で本土に初めて唐手を紹介、以来本土にあって請われて師範となり指導を行う傍ら教書を著し、唐手を空手に、後に空手道と改める。空は般若心経に依り、道は修業を意とする。
 昭和32年4月26日、88歳にして終わるまで、誘掖して倦まず。後に人びとは先生を「近代空手道の父」と称した。これは空手道を世界に布衍せしめたことのみをいうのではない。先生の道に対する人となりに依るのである。
 先生の50回忌にあたって国内外から有志が集まり、先生の遺徳を偲び功を彰かにして、ここに「船越義珍顕彰碑」を建立する。
  平成19年4月20日  沖縄船越義珍顕彰会

 おお、そうかそうか、2007年の建立ですか。こんなに立派な碑をつくった後進に、先生はきっと感謝していることでしょう。ということは、今年2017年は60回忌の年に当たるのですね。また、師は1868年生まれだから、来年は生誕150年ですか。

 主碑・副碑のうしろには、まるで摩文仁にある「平和の礎」のような沢山の名前が刻された4枚の石板が。これらには、碑の建立に賛同した空手道関係者などの名前が刻されていました。

 そして碑群のいちばん左側にもうひとつ、「松涛二十訓」が記されていたので、これも移記。空手の道の極意がここに凝縮されているということのよう。空手はかなりメンタルな武道だということがわかります。

 一 空手は礼に始まり礼に終わることを忘るな
 二 空手に先手なし
 三 空手は義のたすけ
 四 先づ自己を知れ 面して他を知れ
 五 技術より心術
 六 心は放たんことを要す
 七 禍は懈怠に生ず
 八 道場のみを空手と思うな
 九 空手の修行は一生である
 十 凡ゆるものを空手化せよ そこに妙味あり
十一 空手は湯の如し 絶えず熱を与えざれば元の水に還る
十二 勝つ考えは持つな 負けぬ考えは必要
十三 敵に因って転化せよ
十四 戦いは虚実の操縦如何にあり
十五 人の手足を剣と思え
十六 男子門を出づれば百万の敵あり
十七 構えは初心者に あとは自然体
十八 形は正しく 実戦は別もの
十九 力の強弱 身体の伸縮 技の緩急を忘るな
二十 常に思念工夫せよ


 境内内には武骨とも思える「悲歌」を刻んだ碑もありました。これはどんな意図で誰がつくったものなのだろう。
 主碑の表面に粛然として刻ませていた「悲歌」は、次のとおり。

  遺骨だに まだ見ぬ人に たのまれて 泣き泣きひろう 沖縄の石

 その礎石には多くの人の名前が刻されており、協賛者には当時の内閣総理大臣佐藤栄作をはじめ各閣僚、石垣島出身で早稲田大学総長となった大浜信泉なども名を連ねています。
 後ろに回ってみて、建立者が日本民主同志会(中央執行委員長松本明重)で、昭和41年4月に建立されたものであることを確認。

 主碑の左奥には半円形の副碑様のものがあり、それには次のように記されていました。これはあとで建てられたもののようです。

献辞
 昭和23年(西暦1948年)秋以来平成元年(西暦1989年)までの間に、国民運動団体・日本民主同志会が90回にわたって沖縄参拝団を編成実施した慰霊渡行を継承し、沖縄を「日本の霊地」と定め、慰霊の心を平成大和の礎と確信し、創始者松本明重の悲願・沖縄慰霊渡行百回を達成すべく、毎年の秋に「沖縄の旅」を重ねて来た我等は、奇しくも戦乱の20世紀終焉の年に満願成就の時を迎えた。
 謹んで日本と日本民族の真の安寧と繁栄に基づく世界の大和を切願し、茲に赤誠を献じ奉り、我等が微衷を刻するものである。
  平成12年10月5日
   亜細亜スピリチュアル民族会議
   会長 多田容幸 識

 わかったことは、「日本民主同志会」が1948年から40年以上かけて90回に及ぶ沖縄への慰霊渡行をやってきたが、その後は「亜細亜スピリチュアル民族会議」その活動を継承し、2000年に100回の渡行を達成したと、こういうことですな。

 日本民主同志会は、右翼団体の位置づけのようで、松本明重は1914年生まれで、90年に死亡。松本の死去をうけて日本民主同志会は解散となり、同師の精神を伝える目的のもとに師の門下生だった多田容幸が設立したのが、「亜細亜スピリチュアル民族会議」のようです。

 護国神社には実にさまざまな碑があり、一面楽しめる部分がありますが、それらは戦争などによる死者・魂・負傷者に関わるものが多く、精神的には少し重いものがあります。

 いやあ、この参道、碑が多いなあ。
 で、その先にあるもう数十段の石段を登ったところが本殿前の広場になっています。石鳥居に大きな「謹賀新年」の立て看板がくくりつけられていて、多くの人々が初詣に来ています。運動公園内なので、ジョギング途中にここまで駆け上がってきてお参りする人もチラホラ見かけます。

 おおっ、目的物の「天皇皇后両陛下の歌碑」が右手にあるではないか。ではそれをよく見ようではないか。
 これは何の木なのかな、枝ぶりのいい立派な古木の下に両陛下の歌碑があり、なぜかその周りに仮設と思われるおみくじを結び付ける場所が設えられていて、歌碑はおみくじだらけの中で肩身の狭い思いをしているように見えます。



 石碑が2本並んで建っており、向かって左側が天皇陛下の御製の
   弥勒世よ願て 揃りたる人たと 戦場の跡に 松よ植ゑたん
との琉歌、右側が皇后陛下の御歌の
   鹿子じもの ただ一人子を 捧げしと 護国神社に 語る母はも
との和歌。
 天皇陛下の「右出るものはいない」習わしなので、皇后陛下はいつも天皇陛下の左側(向かって右側)になるのだとか。

 それぞれの歌意の説明板が礎石に埋め込まれており、それぞれ次のように書かれていました。

 天皇皇后両陛下が、平成5年当時米須・山城での第44回全国植樹祭に行幸啓の砌、沖縄県に賜った御製です。当神社企画の今上陛下御即位20年奉祝記念事業の一環として、広く大御心をお伝えするため歌碑を建てました。平和な世を願って集まった人々とともに戦場の跡に松をお植えになったことを詠まれた琉歌です。

 昭和49年、皇后陛下は、皇太子妃として3県にわたり護国神社をお参りになっており、そのいずれかの折にお読みになった御歌です。「鹿子(かこ)じもの・・・」は「ただ一人の大切な子」を意味し、護国神社で会われた遺族への深いお気持ちが詠まれています。


 毎年開催される全国植樹祭や海づくり大会では、両陛下が歌を詠まれ、会場など実際にそれを詠まれた場所に歌碑をつくるのが習わしになっているようです。だとすれば、1993年の植樹祭で詠まれたこの御製の碑は当時の会場にもあるのだろうか。また、その際は皇后陛下はどんな歌を詠まれたのでしょうか。
 調べてみると、平和創造の森公園内に記念碑があるようです。

 今回の旅では、もう1か所、天皇陛下の御製が刻まれた碑を見るつもりでした。
 それは、糸満漁港北地区にあるという、「全国豊かな海づくり大会御製碑」。
 2012年、第32回全国豊かな海づくり大会が糸満氏を会場として開催され、その際に詠まれた陛下の御製「ちゅら海よ願て 糸満の海に みーばいとたまん 稚魚放ち」の琉歌を刻んだ碑が、その公園内にあるというのです。
 昨2016年にはこの大会が山形県で開かれたということもあり、これもぜひ見ておこうと資料を準備していたのですが、この日はついそれを失念してしまい、見ずじまいになってしまいました。
 碑のある場所は、沖縄水産高校とか上原長幸民謡研究所(と言ってもわかる人は少ないだろうが)の近くでもあるし、これはリベンジのための再訪確定でしょう。


 「傷痍軍人夫婦像」の隣には、「針の碑」なんてものまでありました。もう、なんでもアリって感じですね。それをブログネタにする自分もなんでもアリなのですが。(笑)
 素通りするのが惜しくて写真を撮ってみたので、載せておきます。
 副碑の記載事項を以下に移記。

「針の碑」建立にあたって
 針供養祭は、私達の日常生活を支える針の恩恵に感謝して供養する、日本古来より行われている歳時で、毎年2月8日又は12月8日に行われています。
 当支部は、支部設立30周年を記念して、護国神社の格段の御高配と多くの皆様のご支援により、針供養祭の継承、家内安全、技術の向上・発展等を祈念して、茲に「針の碑」を建立します。
 尚、碑は地位一般の皆様へも開かれていることを申し添えます。
  平成16年2月8日
   社団法人 日本和裁士会 沖縄県支部
   支部長 熊谷フサ子

 うーむ、和裁ですか。自分はまったくの門外漢です。
 調べてみると、平安時代、清和天皇によって針供養の堂がある寺に建立されたとされているので、9世紀後半には日本に針供養の風習があったことは確実なのだと。少なくとも千数百年の歴史はあるということですね。
 また、針供養祭が2月8日又は12月8日に行われるのは、2月8日は一般的に裁縫などの「事始め」の日だから。しかし西日本の一部ではそれが12月8日になっているのだそうです。

 支部長の熊谷フサ子さんは1943年高嶺村(現糸満市)生まれ。熊谷和・琉裁きもの専門学院を主宰し、2014年11月に厚生労働省の「現代の名工」に選ばれたという人のようです。


 護国神社の境内内には「傷痍軍人夫婦像」というものもありました。「平和の像」の並びです。

 傷痍軍人なんて、今の若者たちは知らないだろうけど、自分には微かな記憶があります。それは悲しい思い出で、山形市内にある護国神社や当時の県庁前で、手や脚のない旧軍人と思われる人が数人、白装束を纏い、アコーディオンなどで物悲しい楽曲を奏で、歩く人々から浄財を求めているのでした。
 何も知らずに「あの人たちは何なの」と母に問うと、「戦争で怪我をした人なんだよ。可哀そうなんだけどね・・・」と語尾を濁していたのをうっすらと覚えています。
 でも、物乞いをするような人たちは傷痍軍人のうちのごく一部であって、多くの傷痍軍人たちは戦後の日々を苦労して生き続けたのだろうと、今ならよくわかります。

 足を失って戻ってきた夫を支える妻の像は、なんだかとても神々しく思えました。
 台座に記された文章は、次のとおり。

傷痍軍人夫婦像
 去る第二次世界大戦において多くの若者が異国の戦場で散華し、又は傷痍の身となった。
 特に、沖縄戦においては、民間人も戦闘に協力し、尊い命を失い、又は負傷した。
 昭和29年1月、沖縄傷痍軍人会を結成し、2,630名余の旧軍人及び戦傷病者が入会した。
 戦後、塗炭の苦しみを体験した私達は、世界の恒久平和を渇望し、その証として、この像を建立する。
  平成23年6月22日
   財団法人 沖縄県傷痍軍人会
   沖縄県傷痍軍人妻の会

 読んでみて思うのは、傷痍軍人会の結成が戦後9年たってからと、いかにも遅いこと。そして、入会者数は戦火の激しさに比していかにも少なく、理由があって会に入らなかった人が多くいたのではないかと思料されることなど。
 そして「戦後、塗炭の苦しみを体験した」とさらりと記載しているけど、この言葉は当事者にとってはもっともっと重いものだったはずだと感じました。



 「人命尊愛の碑」の並びには他の神社比でかなり大きな手水舎があり、さらに先には沖縄県遺族連合会が建てた「平和の像」がありました。

 中央には、女性が長い髪を風になびかせているような不思議なモニュメントが建っています。これは何をモチーフにしたのだろうな。
 そしてそのモニュメントの後方を、「恒久平和」、「共存友好」、「慰霊顕彰」と刻まれた3つの石碑が囲んでいました。
 石碑の中央にある「恒久平和」の碑には、次のように刻まれていました。

鎮魂
 大東亜戦争終結50周年にあたり、沖縄県護国神社に神鎮まる戦没者の御霊を末永く慰霊顕彰すると共に、恒久平和希求の切なる願いをこめて、沖縄県内遺族の総意を結集し、この像を建立する。
 御英霊は、祖国防衛と民族の安泰を護るため、尊い生命を祖国に捧げられたのであり、私たち遺族は常に尊崇と感謝の念を持ち続けている。
 今日、わが国は、この半世紀に亘り、自由と平和の恩恵を享受している。
 これもひとえに諸霊の尊い犠牲によってもたらされていることを決して忘れてはならない。
 私たちは、命の貴き、平和の尊さを常に肝に銘じ、二度と戦争の悲劇を繰り返してはならないことを後世に伝え、我が国唯一の地上戦が展開された激戦地沖縄が、恒久平和の発信地として「広げよう平和の輪、伝えよう沖縄の心」を内外に強く訴えるものである。
 21世紀に向け、私たちは世界の人々と手を携えて、恒久平和の確立に邁進することを固く誓うものである。
  平成7年9月7日
   財団法人 沖縄県遺族連合会

 遺族連合会による建立なので、前出のものよりはわかりやすいです。理念の高さがうかがわれる平易でいい文章だと思う。世界の人々と手を携えようよと訴えるあたりは、ウチナーンチュのチムグクルがよく表れていて、ウチナーンチュが言えばこその説得力があります。

 「沖縄県遺族連合会」とは、沖縄戦など戦没者遺族の組織として1952年2月に「琉球遺家族会」として発足。同年11月には「琉球遺族連合会」と改め、市町村単位の遺族会結成に力を注ぐなど組織強化が図られる。53年には援護法の適用が決まり、同年10月、日本遺族会の支部となる。54年7月、「沖縄遺族連合会」と改称し、復帰に伴い「県遺族連合会」となったもの――とのこと。


 その右には「共存友好」として「今年今月ぬ 今日吉日に たげにはいするて あしり別ら」の琉歌、左側には「慰霊顕彰」として「いくとしゆひてん 忘る間やねさみ すぎし日ぬ姿 朝ん夕さん」の琉歌。
 全体としてよく調和のとれた、いい石碑だったと思います。


 歩を進め、鳥居をくぐったところはさらなる参道。左手には何やら碑らしきものがあるぞ。実はここに来たのは、この地内に「天皇皇后両陛下の歌碑」があるからというのが本当のところ。でも、それ以外の碑もひとつひとつ見たくなるのが“碑マニア”の悲しい性というもの。

 そんなわけで、まずは石段を登ってすぐ左手にあった「人命尊愛の碑」というものをチェックしてみます。
 碑にはずばり「人命尊愛」の4文字。その石には注連縄が施されており、いかにも神道系、右翼系の匂いを漂わせています。
 碑の右手前にあった副碑の記載事項を次に移記。

 「アジアにひとたび戦雲おおえば惨禍及ばざるところなし」と、昭和3年天啓によって諭され、時の政府に再三謹告したにもかかわらず、聴聞に達することを得ず。かえって獄舎の身となる時の流れはそのまま推移し、時局は予言にたがわず第二次世界大戦へと突入、アジア全域にわたって戦塵の巷と化す。
 このとき再び「琉球は聖地なり」の天啓をいただくも、いかんとする術を知らず、日ならずして沖縄に戦火燃え、彼我の熾烈なる攻防に山容あらたまり、幾多の人命は失わる。やがて戦火止むといえども人心その據るところを失う。
 たまたま修養団奉誠会沖縄県支部の発会を機として、仲本興徳支部長、護得久和子、根波朝造両副支部長以下同志の熱誠と沖縄県護国神社奉賛会具志堅宗精会長ほか三好邦忠、加治順正両氏等同神社関係の人たちの協力を得て、ここに人命尊愛和石の建立をみる。まさに天の理と人の和の合掌の姿なり。
 人命尊愛は、人の命を長らうるのみにあらず。尊い命を与えられし万人が活かされる大恩に感謝し、他自ともに助けあい悠久なる平和の郷をこの地上に実現せんとするためなり。これ吾人の70年の願望なり。
 沖縄はアジアの要にして東洋の平和の根元たるべき聖地なり。ここに人命尊愛の和石を通し、広く万人に呼びかくるものなり。
  昭和49年9月吉日
   修養団奉誠会 教祖ならびに総裁 出居清太郎  清堂 亀井安之助 謹書


 うーむ、「天啓」ねぇ。石碑は「天の理と人の和の合掌の姿」なのですね。昭和49年ですから、沖縄が日本に復帰してまだ日が浅かった頃の建立です。
 碑のみならずその周辺の造作も立派で、かなりカネのかかったものと思われますが、建立に至る経緯や背景などが、高邁過ぎてよくわからないというのが本音でしょうか。

 碑を建立した「修養団奉誠会」とは、豊島区池袋に本部を置く1941年創始の宗教法人だそうで、その思想信条の詳細は不明。
 また、登場人物のうち「護得久和子」の名に聞き覚えがあったので調べてみると、尚家出身の1920年生まれで、「ちからのかぎりに」という自叙伝をボーダーインクから出版している人のよう。
 「根波朝造」とは、昭和の時代に琉球精油株式会社の社長だった方のようです。
 さあ、もうひとつだけ。安良波公園にあるという「インディアン・オーク号漂着記念モニュメント」を見に行きます。
 1840年8月、英国東インド会社のインディアン・オーク号が台風のため安良波海岸に難破。その際、北谷の人々は身の危険も顧みずに乗員を救助し、島を去るまでの間手厚く保護した、という美談があります。その船をモチーフにしたものようです。



 安良波公園に来るのは初めてのこと。17時半を過ぎて少しずつ暗くなってくる時間帯。アラハビーチの北側にある駐車場に車を停めて、海岸沿いを南へと歩きます。子ども連れの家族、犬を連れて歩く人、バスケットボールに打ち興じる若者たち。みんな外で楽しんでいます。北国の人間から見ればそれは羨まし過ぎることです。
 海から吹きつける風がやや強いために少し肌寒く感じますが、それでも上着を羽織るほどではありません。夏の夕間暮れなんかに来たならさぞかし気持ちがいいのだろうな。

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 なかなか見つからないなーと思いながら歩を進めていきましたが、モニュメントは公園の南端のほうにありました。難破した船をかたどっているので砂地に斜めにめり込んだ形です。子どもたちのジャングルジム代わりになっているようです。

 逸話を伝える立派な石製の説明書きがありましたので、それを次に移記。

インディアン・オーク号座礁・漂着の記録
 1840年8月14日、英国船籍東インド会社のインディアン・オーク号は、台風の影響を受け北谷地先のリーフに座礁しました。
 当時のアジアやヨーロッパでは難破船は略奪される時代でしたが、北谷の村人は船を失った乗組員67人全員を救出し、帰国するまでの45日間衣食住を与え手厚くもてなしました。
 また、帰国に際しては約180トンのジャンク船を建造し乗組員に提供しました。
 インディアン・オーク号の遭難から帰国までの様子は、船員によって「海事誌及び海軍記」に記録され、大英博物館に所蔵されています。
 インディアン・オーク号の座礁地点は、調査の結果、白比川河口の真西約1,050メートル、さらにリーフを真南に約250メートル下った一帯であることが判明しています。
 この公園には、史実にもとづきインディアン・オーク号を模した帆船を設置いたしました。
  2000年7月21日 建立


 野國總管に関してもうひとつ、スポットがある。野國總管の像がカデナマリーナの入口にもあるそうなのだ。
 そのマリーナの入口まで行ってみたところ、信号機のある入口のところに大きな碑がひとつ。だがこれは像ではありません。
 マリーナ入口は、他の米軍施設と同様に入場者チェックのためのゲートが設えられており、この時間、衛兵こそ立っていないけれども、勝手に入ったりすると「ヘイユー、ハングアップ!」とか言われそうでコワイ。
 これ以上進めないので、そこでクルマを下りてあたりを見渡しますが、像は見つかりません。

 先の信号まで戻ると、碑の手前には「野国貝塚群」と記された緑色の標識。遺跡類にはまだ興味が持てないのでスルーして、「碑」のほうを見に行きました。
 それは次のとおり。

甘藷発祥の地 野国いも宣言
 1605年、我が町の先達・野國總管によって中国福建省からもたらされた甘藷は、野國總管生誕の地・野国を発信基地として琉球のすべての村々へ、そして、薩摩を経て全国へと広まり、人々を飢えや飢饉から救い、全国民が等しくその恩恵に浴することになりました。
 今日、甘藷は未来を希求する健康食品として注目を浴びております。
 甘藷伝来400年の節目を迎える2005年、野國總管の偉業を奉祝する「野國總管甘藷伝来400年祭」が全町民の手により挙行されました。この慶賀を機に、我が国における甘藷発祥の地・嘉手納を全国に広く発信するとともに、野國總管を称え、甘藷を「野国いも」の愛称で呼ぶことを高々と宣言し、ここに記念碑を建立します。
  2005年10月1日
   野國總管甘藷伝来400年祭実行委員会
   実行委員長 嘉手納町長 宮城篤実

 この日も400年祭のときにつくられたもののよう。
 それにしても、これは甘藷を「野国いも」と“呼び習わすこと”を宣言する碑であり、ユニークなものがあるものだと思う。

 結局のところ像は発見できず。ウェブ上で見た立ち姿の野國總管像はどこに行ってしまったのだろう? なんだかこの日の後半は、すっかり野國總管に振り回されてしまったような感じだな。


 午後4時半を回って、この季節の東北地方なら薄暗くなり始める時間帯ですが、沖縄の太陽はまだ元気。もう少しこのあたりを見ていきましょう。
 次に寄ったのは、少し戻って、国体道路沿いにある「道の駅かでな」。ここには嘉手納飛行場の米軍ジェット機の離発着を見に何度か訪れたことがありますが、野國總管(のぐにそうかん)像を見るために来ることになるとは思ってもいませんでした。最近は見るものがかなりマニアックになっているので、こういうことって時々あるのですけどね。

 野國總管とは、嘉手納町野国出身で、尚寧王時代に首里王府の貿易船の總管役を務めた人。
 琉球国時代の役人の正装をして、手に芋を持っています。
 台座に嵌め込まれた銅版には次のように記されていました。

芋大主 野國總管
 野國總管(嘉手納町野國出身)は、西暦1605年に中国から初めて甘藷を琉球に持ち帰りこれを島中に広めた。
 当時の琉球は度々大飢饉に見舞われていたが、甘藷の普及により人々は飢えをしのぎ、餓死者も出さずに済んだと言われている。總管はこの功により人々から「芋大主(ウムウフスー)」と呼ばれ、尊敬された。
 甘藷は、1615年、英国人ウィリアム・アダムスによって那覇から長崎に伝わり、その後日本各地に広まるようになり、享保の大飢饉をはじめ数々の飢饉に際し、多くの人命を飢えから救う貴重な食糧となったのである。
 私達は、郷土の先達野國總管の偉業を讃え、これを町民の誇りとして後世に伝えるため、本商工会設立15周年を記念し、この顕彰碑を建立する。
  1990年1月5日
   嘉手納町商工会
   謹書 中根 聖   原型指導 喜友名朝紀

 また、その左にあった「野國總管甘藷伝来400年祭」の説明板には次のように記されていました。

 2005年、嘉手納町の先達・野國總管の手により甘藷が我が国にもたらされて400年を迎えるのを記念し、1955年甘藷伝来350周年祭に続く50年に一度の祭典として「野國總管甘藷伝来400年祭」が全町民の手により挙行された。
 2004年大晦日のカウントダウンイベントを皮切りに年間を通して数々の事業が展開された。
 その中心となったのは9月30日(金)の記念式典、10月15日(土)・16日(日)のまつりであり、特にまつり最終日には国道を大渋滞にするほど観客が会場につめかけるなど所期の目的を達成し大成功を収めることができた。
 この像は、その400年祭を記念して2005年6月22日に当地に移設されたものである。

 ふふふ、国道が大渋滞したことを誇らしく思っているようで、おかしい。50年に一度のビッグイベントですからね。
 1990年建立の像を2005年に当地に移設したとのことですが、もともとは嘉手納商工会の敷地内にあったもののようです。それを示す琉球新報の記事を紹介しておきます。

・100日前で野國總管像設置 甘藷伝来400年祭 道の駅かでな 2005年6月23日
 嘉手納町で「野國總管甘藷伝来400年祭」(9月30~10月2日)を開く同祭実行委員会が、同町屋良の道の駅「かでな」に野國總管の座像を設置し22日、除幕式を行った。座像の設置は同祭開催の100日前となったことを記念して実施。座像そばには、同祭の開催日までの残暦板が設置され「100日前」を示す数字が入った。
 座像は、嘉手納町商工会が1990年から、同町嘉手納の商工会事務所の敷地内に設置していたものを移設した。座像は高さ120センチ、野國總管の出身地とされ、現在、嘉手納基地内にある野国の方向を向いている。
 除幕式で宮城篤実実行委員長(嘉手納町長)は「400年の節目をしっかりと祝い、あらためて人々の命を救った恩人をたたえ、遺徳をしのびながら、真摯の精神を引き継いでいきたい」とあいさつし、全町民の祭りへの参加を呼び掛けた。

 そうか、彼は、米軍に接収されてしまった故郷野国を見ていたわけか。


 そして、嘉手納町青少年センターの駐車場にあるモニュメントの3つめは、「天川の池の碑」。最も奥まったところの山裾に建っています。
 「天川」は琉球古典音楽の曲。自分にとっては「天川」は、喜納昌吉の父喜納昌永の歌う三線の早弾きによるものがあまりにも印象的。「唐船ドーイ」のウタムチにも似たところがあり、絶叫調でうたわれるそれは民謡とは思えないぐらいのグルーヴ感があります。
 その喜納昌永は2009年、88歳で死去。正調琉球民謡工工四の作成など民謡の普及と保存に尽力するとともに、嘉手苅林昌、前川朝昭、普久原恒勇らと琉球民謡協会の設立に携わり、民謡テレビ番組、民謡クラブの看板歌手として活躍した人でした。

 碑に刻された「天川」の歌詞。
 天川の池に 遊ぶおしどりの おもいばのちぎり よそや知らぬ

 天川の池で遊ぶおしどりのように、二人で交わした深い契りを他人は誰も知らない――。
 この琉歌は三線音楽の始祖赤犬子の作だと伝えられています。
 碑の台座に、天川についての説明があったので、以下にそれを移記。

 比謝橋を渡り、那覇へ向かってまっすぐ行くと、戦前まで石を敷き詰めた幅1間程の坂道があり、俗に天川坂(ビラ)と言った。その登り口の東側、カシタ山のふもとのンブガーの西隣に、直径2尺ぐらいの円筒形に積み上げられた井戸が天川[天井戸(アマカー)]と言われた。
 このあたりは、樹木がうっそうと繁茂し、その側を流れる比謝川で遊浴する雌雄のおしどり見て、比謝川と天川井戸を結びつけて、約450年前、赤犬子が上記の歌を詠まれたものと思われる。
 (沖縄県文化財調査報告)(嘉手納町史民俗資料編)
  平成8年8月30日 建立

 これに記載のとおり、比謝橋のたもとには「天川」と表示された、円形に石を積み上げた見事なカーがあるのだというのですが、残念ながらこれは見ずじまいになってしまいました。



 亀千代ちゃんの胸像の奥には碑がもうひとつ並んで建っており、それは空手の大家、喜屋武朝徳(チャンミーグヮー)の顕彰碑です。
 チャンミーグヮーに関しては今野敏の小説「チャンミーグヮー」を読んでそのたゆまぬ鍛錬をする姿に強い共感を抱いているので、とても興味のある碑です。
 少し笑っちゃうけど、チャンミーグヮーの顕彰碑を前にして喜んでいる沖縄観光客なんて、そういるものではないよな。

 石碑の主部分は、「拳聖 喜屋武朝徳先生 通称 チャンミーグヮー」との記載。出で立ちのすらりとした、見栄えのいい碑です。
 基礎部分に「顕彰碑の説明文」のプレートが嵌め込まれていたので、以下に引用しておきます。

 喜屋武朝徳先生(明治3年~昭和20年)は、近代沖縄が生んだ傑出した空手道の名人である。通称「チャンミーグヮー」として知らぬ者なき武名を天下に轟かした。
 先生は、明治3年首里の名家に生まれ、多感な幼少時代を東京で過ごし、在京中(現二松舎学院大学)で漢学を学んだ。
 幼少の頃、父から空手道の手ほどきを受けた先生は、東京から帰郷後は、いわゆる首里手や泊手の達人たちに師事を受け、さらに修練を積み空手道の大家となった。五尺たらずの小兵ながら、先生の技は鍛え抜かれた力強さと飛鳥の如き早技であったという。
 明治43年頃からは比謝川の河畔に居を構えて、嘉手納在の県立農林学校生や青年師範学校生、警察署署員、そして近隣の青少年などに清貧に甘んじながらも無報酬で、空手道の「技」と「心」を伝授した。厳しい稽古の中にも深い学識と温かい人柄は、すべての教え子から敬慕された。文武両道に優れたまさに拳聖と呼ぶにふさわしく、我々門弟・孫弟子たちは、ここに碑を建立して、先生の遺徳を偲ぶものである。
  平成11年(1999年)7月吉日
  仲里常延(知念村) 平良一男(勝連町) 富盛正雄(与那原町)
  親川千吉(知念村) 親川仁志(西原町) 佐久川政信(佐敷町)
  石井徳男(京都府) 仲里武思(与那原町) 花城清成(知念村)

 うーむ、いい話だなあ。
 チャンミーグヮーは首里士族の出であるはずなのに、どうしてチャタンヤラ系のお膝元であるこちらと関係があるのだろうと思ったものですが、その疑問も後年「比謝川の河畔に居を構え」たという上記の説明で氷解したところです。


 次に目指したのは、嘉手納町青少年センター。
 ここには「天川の池の碑」と「野國總管像」と「喜屋武朝徳顕彰碑」があるというので、よしっ、まとめ見だ!と勇んで向かったところ。
 比謝橋の南側の袂に位置するこの建物は、もともと嘉手納町立図書館があったところですが、その図書館が新しくできた嘉手納ロータリープラザに移転・集約されたため、今はうたた荒涼といった感じ。かつては文化ゾーンとしていろんな像や碑がここに集められたのでしょうが、すっかり人気がなく、なんだか寂しい感じがします。
 でもいいや、まとめ見するんだもん。

 しかし、駐車場にあるはずの「野國總管像」が見えません。手元の資料によれば「野國總管像」はすぐ奥に見える「天川の碑」の手前にあるはずなのだけどなあ。
 でもって、「野國總管像」があるはずのところには似ても似つかぬ別の像。それは、「幸地亀千代先生像」でした。
 う~む、これは事前に察知し得なかった展開。あまり納得いかないのだけど、じゃあまず、その亀千代ちゃんから攻めてみることにしますか。

 幸地亀千代(こうちかめちよ、1903~1969)は、琉球古典音楽野村流歌三線演奏者。北谷間切嘉手納村水釜(現嘉手納町)生まれ。
 16歳の頃、勢理客宗徳から野村流の手ほどきを受け、瑞慶覧朝蒲・伊差川世瑞・高安朝常らに師事して琉球音楽を学ぶ。1949年に師範免許を受け、野村流音楽協会の再建に尽力し副会長に就任。55年、ハワイ支部・北米支部から招聘を受け音楽指導に出向。63年、野村流音楽協会第6代会長に就任。66年、琉球古典音楽連盟が結成され副会長に就任。伊差川・世礼の「声楽譜付工工四」の扱いを実技をもって示し、後進を指導。野村流の普及発展と音楽協会の地歩を固めるのに大きく貢献した。堂々たる体躯で美声に恵まれ高音にすぐれていた。

 知らない人ではなかったけど、改めて経歴を見るとなかなか立派な人のようですね。

 和装の幸地亀千代の胸像があり、その右側に琉歌の刻された副碑。副碑の内容は次のとおり。

 幾としになても 歌の長道や 歩みわん奥の 果やしらぬ

 幸地亀千代師匠の胸像は嘉手納町水釜に建立されましたが、手狭になり拝謁及び捧奏等に大変支障をきたしておりました。
 この度、幸地家並びに嘉手納町の御厚意によりこの地に移設することが出来ました。
 移設により県内、県外はもとより国外の野村流関係者の拝謁及び顕彰が容易くなったことはまことに慶びに絶えません。
 幸地亀千代門下会を代表し衷心より感謝申し上げます。
   記
 建立 1964年11月1日
 移設 2006年9月23日
  幸地家
  幸地亀千代門下会

 亀千代ちゃんはここに2006年からいらっしゃったというわけなのですね。
 ということは、やはり自分の資料の読み間違いだったのかな。
 でもまあ、ここで亀千代ちゃんに会えたのは、終身名誉監督風に言えば、いわゆるひとつのラッキーでしたね。