13 黒崎砲台跡 ~旧郷ノ浦町・新田触

 猿岩の駐車場からすぐのところに、東洋一の砲台跡といわれる黒崎砲台跡がありました。
 対馬海峡を航行する敵の艦船を攻撃するために、1928~31年までの間に建設されたものとのこと。

 口径41cmのカノン砲2門の砲台で、砲身の長さ約19m! 巨大な地下要塞として普通は海からは見えないようになっていたそうで、1tの弾丸を35kmも飛ばす威力があり、玄界灘をすべて射程内にしていたとのことですからすごい。
 しかし結局は、太平洋戦争時も含め、一発も実弾を発射することがないまま役割を終えたということです。

 現在は、カノン砲は撤去され、山に掘られた地下要塞の跡が残っています。
 入口に掲げられた図を見れば、地上に出ている砲身体、いわば戦車の砲身部分のようなところだけで150tあったといい、これを動かす動力室や弾薬室がその下にあり、写真の入り口はさらにその下にあるものだったようです。当時はさぞかしすごい基地だったのだろうと想像できます。

 写真右側に写る2つの砲弾は、右の大きいのが戦艦大和の主砲砲弾で、左側のものが黒崎砲台の砲弾。日本最大のものと大差はありませんね。
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12 猿岩 ~旧郷ノ浦町・新田触

 旧芦辺町は、明日乗るジェットフォイルが芦辺港発なので明日また来るとして、次は島を東から西へと真横に横断して、名勝・猿岩へと向かいました。

 途中、1日40万リットルの湧出量を誇る湯ノ本温泉郷を通過。神功皇后が三韓出兵の帰路、ここに自噴している温泉を見つけ、応神天皇の産湯をつかわれたとの伝説がある、「子宝の湯」。しかし温泉一つとってもその由緒はすごいです。

 玄海灘から対馬海峡へと横断するので時間がかかるかと思ったら、所要時間20分余りで猿岩到着。
 駐車場の入り口の先に見えてきた猿岩には思わず笑ってしまいました。だってこれ、まったく猿の後ろ姿そのものなんだもの。誰が見たって猿。(笑)
 頭部の角度なんか、哀愁すら感じられて最高。しかも大きくて存在感がすごい。立派!
 湯本湾の西に突き出した黒崎半島の突端にある海蝕崖の玄武岩で、高さ約50m! 猿が左を向いた形で、頭と背中の部分に芝生が生えているのですが、それがまた本物らしさを演出しています。

 ただの岩なのですが、ここが壱岐一番の観光スポットになっているというのも大きくうなずけます。まさに、百聞は一見に如かず。サイコーでした。
 惜しむらくはここは、光の加減からいえば、西日のきつい夕方ではなく、東からの順光となる午前中に来るべきであった。そうしたならもっといい写真が撮れただろうになあ。

 なお、壱岐島誕生の神話によると、「壱岐の国は“生き”島で、神様が海中でこの島をお産みになったとき、流されてしまわないようにと8本の柱を立てて繋いだ。その柱は折れ残り、今も岩となって折柱(おればしら)といわれている」とあります。
 そして猿岩は、その8本の柱のひとつなのだそうです。


11 壱岐神社 ~旧芦辺町・瀬戸浦

 少弐公園に隣接して建つ壱岐神社へ。少弐資時(しょうにすけとき)と、亀山天皇、後宇多天皇を祀って昭和19年に本殿が造営された神社です。1500年の歴史をもつ壱岐の神社の中では最も新しい神社とのこと。
 「ショウニイ様」と呼ばれる石積み塚を600年以上も語り継いてきた地元の人々の信仰心がやっと形になったということなのでしょう。

 以下、極めて難解な壱岐神社の公式サイトを口語的に要約。

 祭神である亀山天皇、後宇多天皇は、元寇の役時の天皇で、伊勢神宮をはじめとした天神地祗を仰遊され、深き御神助のもとで元軍を西海の藻屑と消え失せしめ給うた。
 また、祭神少小弐資時公以下の将士と、戍申の役以来の護国の英霊等が、尊い命を捧げられた事蹟は、我々が永く敬仰して止まぬところである。
 壱岐島民は、昭和3年以来、当神社の創建事業を進め、戦時下の物資困難な時節にも各方面の援助を得て昭和19年、本殿の建設を見たが、昭和23年11月3日、祭神三柱の大神等の鎮座祭を執行し、また同27年には壱岐護国神社の鎮座祭を執行して護国の英霊を安鎮鎭し、同28年には宮内庁掌典長より祭祀幣帛料が大前に奉尊された。
 同29年には神宮局長が来社し、境内外の視察計画を樹立され、同30年には靖国神社より奉幣あり、同31年秋11月8日に靖国神社御分霊を奉遷し、同時に社名併稱の事となった。
 同年3月26日、遺族崇敬者を以て献饌講を結成するに当り、伊勢神宮より御稻種を下賜せられた。
 また、昨春(平成2年?)4月、祭神である両天皇の御尊影である宮内庁御原図の謹写を許され、本春4月21日、例祭に当って本殿の神座に奉安した。
 このように、皇室を始め遺族崇敬者、国民一般の厚い信仰の業蹟はただただ感激のほかありません。

 くーっ。これでもかなりわかりやすくしたつもり。
 もっと平たく書いてよ、こっちは平民で浅学菲才なんだからさ。


10 少弐公園2 資時の墓 ~旧芦辺町・瀬戸浦

 少弐公園には、元寇当時の壱岐守護代少弐資時(しょうにすけとき)の墓がありました。
 その隣には資時公の記念碑も。

 1281年、4万もの蒙古東路軍が対馬を襲った弘安の役では、芦辺町の瀬戸浦付近を中心に元軍とのせめぎあいが続いたということですが、この時、壱岐を守るため、元軍を迎え撃った中心人物が、壱岐の守護代少弐資時です。
 資時は、北西部海岸(瀬戸浦)と勝本から上陸した元軍を迎え撃ち、船匿城(ふなかくしじょう)で戦死しています。その時、弱冠19才。永い間地元では「ショウニイ様」と呼ばれていた石積みの塚が資時の墓であると分かったのは、つい最近の明治31年のことだったそうです。

 日が傾き始めてきて時刻は16時30分。ゆっくりしていたいが先を急がなければ。
 ということであわただしく壱岐神社のほうへ。
 公園のすこし海のほうに行けば、碇石(いかりいし)という左京鼻沖で発見された元寇当時の船の碇と思われるモニュメントや、烽火(すすみ)や煙台(のろしだい)も見られ、展望台もあったようですが、時間を気にしてスルーしてしまったのは残念でした。


9 少弐公園1 少弐公園からの眺め ~旧芦辺町・瀬戸浦

 男岳神社から15分ほどで到着した少弐(しょうに)公園。竜神崎という岬の先端部にあり、正式には「竜神崎園地」と言うようです。
 ここには元寇史跡や当時の壱岐守護代少弐資時(しょうにすけとき)の墓のほか、遊歩道やキャンプ場、そして少弐資時を祀っている壱岐神社などがあります。

 入口から進んでいくと、海の見渡せる広場に出ました。ああ、これまたいい眺め。
 この高台は古戦場。壱岐は国境の島として再三にわたり異敵の来襲を受け、最大の受難である元寇(文永・弘安の役)では、特に1281(弘安4)年、ここ瀬戸浦で激戦が繰り広げられ、善戦むなしく壱岐の守備隊は全滅したといいます。

 以下、現地に立っていた説明版を引用します。

・長崎県指定史跡 弘安の役瀬戸浦古戦場  昭和50年1月7日指定
 所在地:長崎県壱岐市芦辺町箱崎大左右触(瀬戸浦一帯)
 弘安4(1281)年の、2回目の元寇の時、対馬・壱岐を侵して6月初旬に博多湾に来襲した元軍(東路軍)は、鎌倉幕府の守備軍との間で激戦を展開し、一時は水城(みずき、現福岡県太宰府市)にまで迫る勢いであった。しかし東路軍は幕府の予想以上の反撃に遭い、江南軍の到着が遅れたこともあってか、6月中旬になって肥前鷹島まで退いた。
 当時の壱岐島は元軍の博多攻略の根拠地となっていた。そのため鎮西奉行・少弐経資(しょうにつねすけ)は自ら陣頭に立ち、博多方面の警護をしていた薩摩・筑前・肥前・肥後の御家人達を率いて壱岐の瀬戸浦に攻めよせ、6月29日から7月2日にかけて元軍と激突することとなった。戦闘は主に港の内外を中心とする海上はもちろんのこと、瀬戸浦の両岸やその周辺の陸地でも激しく繰り広げられたという。
 瀬戸浦は2キロメートルに及ぶ狭隘な入り江を有し、西側には少弐氏の居館船匿城(ふなかくしじょう)があり、水軍の基地としては絶好の条件を備えていた。また壱岐から博多までの最短の地に当たることから元軍も拠点としていたものと考えられる。
 当時の壱岐の守護としては、今日わずかに文永10(1273)年11月16日の記録(「松浦文書」)にみられる武藤(のちの少弐)資能(すけよし)が確認できるだけである。
 瀬戸浦一帯が少弐氏の私領であったことから、その攻防戦は激しいものがあったと想像される。(この戦いについては「龍造寺文書」弘安5年9月9日肥前守護北条時定書状に、「去年異賊来襲時、七月二日、於壱岐島瀬戸浦令合戦由事、申状并證人起請文令披見畢」(去年(弘安4・1281年)、元寇が来襲した時、7月2日に壱岐の瀬戸浦で合戦に及んだという事、貴方からの上申書(恩賞を願い出た文書)並びに天地神明に誓った起請文で拝見した。)と記されている。)
 また、ここに築かれている積石塚は、少弐経資の三男、資時(すけとき)の墳墓であるとされる。 資時は当時19歳で一軍の将として勇敢に戦い、ついに倒れた。 資時は、壱岐守護代であったとも伝えられるが詳細については確認できていない。


8 男岳神社からの眺め ~旧芦辺町・箱崎

 神社入り口の鳥居の右側には、その場にふさわしくないような大掛かりな展望台がありました。
 壱岐で2番目に高い「男岳展望所」というもので、ここからはそう大きくない壱岐の島の全島が見渡せます。
 眼下には男女岳ダムなどが見え、遠くには芦辺の町と港も。
 こんな山の中の神社にまで足を運ぶ観光客はそう多くはなく、というか、この時間帯には自分しかいず、このパノラマを独り占め。ある意味とても贅沢といえるのかもしれません。

 次は、今展望所から眺めている芦辺の町へと向かいます。


7 男岳神社 ~旧芦辺町・箱崎

 勝本港を離れ、その東側にあるイルカパークの入り口まで行ってUターンし、男岳神社(おんたけじんじゃ)の石猿群を見に行きました。
 神社の拝殿横の石段には200体を超す石猿が並んでいる――というので、これはおもしろそうと、けっこう期待して臨みます。
 山がちな道をぐりぐりと登り進めて、男岳山の頂近くにある傾斜のついた駐車場に20分ほどで到着。おそらくここは、今でこそ車で来られますが、地形から察して山全体が御神体で、人が入ることを拒む禁足地だったのでしょう。

 社殿へと続く急な石段を登っていくと、おお、いるいる、たくさんの猿。
 なんでも最初は、牛の健康や繁殖を祈願して石の「牛」を奉納していたらしいのですが、最近は家内安全、合格祈願、子宝祈願、交通安全などなど、なんでも祈願し、成就したら石猿を奉納するようになったのだそうです。それはこの神社の祭神が猿田彦命(さるたひこのみこと)だから?

 古いものから新しいものまでやはり猿が多く、親子の猿や、「見ザル聞かザル言わザル」の3点セットなども。一方で、牛もけっこうあります。
 ひとつひとつには亡羊としたものから愛嬌たっぷりのものまで各様の表情があり、観ていておもしろい。でも、夜だったなら怖いかも。

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6 勝浦聖母宮 ~旧勝本町・勝本

 手持ちの地図に「聖母宮の茶つぼ」と書かれているポイントがあったので、「ソレハナニカ?」と狭い道に入り込んでみたところ、到達したのが聖母宮(しょうもぐう)でした。

 勝本浦の北の端に位置し、ここもまた神功皇后ゆかりの地のようで、創建は養老年間というから西暦700年代前半の古社です。
 1770年頃には、鴻池家、三井家と共に日本三大富豪とも言われ、また日本の鯨王ともいわれていた土肥家がこの勝本にあり、その土肥家が厚く信仰した神社であるとのこと。

 以下、聖母宮の境内にある案内板から移記。
『旧号  香椎大明神 聖母大菩薩
 鎮座地 壱岐郡勝本町勝本浦正村
 祭神  息長足姫尊(神宮皇后) 足仲彦尊(仲哀天皇) 誉田別尊(応神天皇) 住吉大神
 配祀  天照大神
 由緒
 「壱岐名勝図誌」によると、仲哀天皇の9年神宮皇后は、肥前唐津の神集島で三韓出兵の勝利を祈願し、土器崎より壱岐に向けて3,270艘の軍船を出発させた。
 この時、船が進むのにつごうの良い東風が吹きはじめた土器崎の地を風本と名づけ、東風が吹きゆく壱岐の方向を風早と名づけた。
 壱岐すなわち風早の島についた皇后は、風まちをして対馬の鰐津に向けて出帆した地を風本と名づけ、三韓からの帰りに再び立ち寄られ、出兵の勝利を祝い勝本と改められたという。
 皇后は、出兵の往来にさいし行宮(あんぐう)を勝本に建てられたが、御殿はその後放置されてしまった。
 しかし毎夜海中から光る物があがってくるという出来事が続いたので、里人は鏡を御殿に納めて神功皇后を神としてまつったのがこの神社であると伝う。
 また、一説には異敵の首101,500を持ち帰った皇后は、風本の浜に穴に掘って埋められ、9町8反の石の築地を一夜で築き、その上に宝殿をつくり、聖母の社を建てられたとある。』

 ふむふむ。対馬の鰐津は、前に書いた鰐浦のことで、その地名は、日本に漢文と学術を伝えた王仁(わに)が九州に渡るときの経由地だったことから生まれたものでしたよね。
 「仲哀天皇の9年」とは、西暦200年の頃の話なので、史実というよりも伝承。なので、最後の異敵の首云々の話も伝説なのでしょう。

 案内板は続きます。
『文化財
 昭和47年に長崎県指定有形文化財とされた茶壺が有名。壺の銅部に「進入、日本いきしま、風本宮、聖母大菩薩、御神物ちやいれ、是ヲ心サス、喜斉、百良内村生、宗靏沙門(花押) 天正廿年 敬白」の銘がある。
 その他に数多くの文化財が伝えられているが、神社の西門と南門は豊臣秀吉の朝鮮出兵の折りに、加藤清正と鍋島直茂によって造営寄進されたと伝えている。
 この西門(正門)の前方には、神功皇后の御乗馬の足跡がのこるという馬蹄石がある。』

 はぁ、長い文章の看板だな。
 これにて「聖母宮の茶つぼ」の謎は解ける。

 ちなみに「西門」は、1592年に肥後熊本城主・加藤清正が朝鮮出兵の際に寄進したものですが、1768年に勝本の鯨組土肥家4代・土肥一兵衛により脚部が取り替えられ、またこの時、蟇股が加藤家の「蛇の目」紋から土肥家の「中陰の蔦」紋に替えられています。栄枯盛衰、諸行無常、金権にはかなわじ。
 また、「南門」(脇門)は、1592年に肥前佐賀城主・鍋島直茂が寄進。蟇股には加藤家の「蛇の目」と鍋島家の「抱茗似」紋が陽刻されています。しかし、鍋島家寄進の門に加藤家の家紋があるはずがなく、もしかすると、1768年に西門から取り去られた加藤家の紋章入りの蟇股が組み込まれたのかもしれない、といわれているそうです。

 境内にあった手水鉢はなんと南洋産の大きなシャコ貝でできています。驚いたのでシャッターを押してみました。

 なお、「香椎大明神 聖母大菩薩」とあるので福岡の香椎宮のHPを見てみたところ、「神功皇后は安産の神としても崇敬され、聖母大明神ともよばれた。」というくだりがあったので、付記しておきます。

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5 壱岐のバス

 壱岐ではけっこうあちこちでバスが走っています。壱岐交通という会社が運行しているようで、車体には「IKI BUS」のロゴが入り、水色と赤のペイントが施されています。

 比較的年式の新しいバスが多いと感じました。バス会社の経営はいずこも厳しいと思いますが、その中にあってここは比較的経営状態は悪くないのではないか。

 調べてみると、交通のほか自動車関連、生活関連、物流、情報・金融、教育・福祉事業などを幅広く手掛ける「昭和グループ」というところが経営権を持っていて、グループ全体の従業員約5千人、年商は1,600億円以上あるらしい。やっぱりね。

 写真に写っているバスは、15時26分に勝本を出発し、芦辺、印通寺を経由して、17時前に郷ノ浦に到着する便。これだけ経由すれば1時間半はかかるよな。

 千円で買える「一日フリー乗車券」というのがあるそうで、のんびり周るならこれを使うという手もありそうです。


4 勝本港 ~旧勝本町・勝本

 そして、壱岐の北端、勝本の中心へ。
 けっこう活力のある町のようで、港には漁船がずらり。ずいぶん多いぞ。烏賊釣り船かな。
 新鮮な魚介類を供するのであろう民宿が多く、地元民や観光客をあちこちに見かけます。
 海岸線に沿う道路には大きくて新しい建物が並んでいます。また、採れたての海の幸、山の幸が並ぶ朝市は、地元の人や観光客でにぎわうのだそうです。

 調べてみたところ、対馬海峡に面する勝本港は、古代から北の玄関口として大陸交通の要衝として栄え、江戸時代は捕鯨基地として栄えた港町。ナルホド、捕鯨か。
 そして近年は、壱岐周辺の好漁場を生かしイカ、ブリ、タイなどの漁業を中心とした約700隻の漁船を有する西日本有数の漁業基地となっている、と。

 また、「勝本」の地名の由来は、神功皇后が三韓征伐の折、ここで風待ちのために滞在し、ちょうど良い風で出発することができたので、この地を風本(かざもと)と呼ぶようになり、その後三韓征伐で勝利したので、帰国する途中に再度寄った際に「勝本」と呼ぶようになった、とのことです。


3 城山公園2 ~旧勝本町・勝本

 どうやら御柱が立っている場所は、公園に至る途中のよう。さらにずずいっと進んでいくと「城山公園入口」の看板があり、また石段を登って鳥居をくぐると、石垣が見えてきました。このあたりが城跡部分なのでしょうか。

 そうしてたどり着いた山頂部分と思しき所にあったのが、「城山稲荷神社」

 神社の前にあった由緒書きを移記。
「天正19(1591)年、豊臣秀吉は風本(かざもと)城を築きました。
 文禄の役がはじまるとともに、壱岐の各地で秀吉率いる軍の海上安全と戦勝の祈願が行われ、天正20年にこの稲荷神社もまつられました。
 戦役の終了後は、勝本浦の人々のあつい信仰の場となり、現在まで長い間まもられてきました。
 毎年、旧暦2月の初午の日に一支国(いきこく)の大神楽が行われ、海上安全・大漁満足・家内安全・商売繁盛祈願のお祭が行われています。 城山稲荷神社講中」

 赤く塗られた鳥居が連なっており、なかなかチャーミング。
 それにしても、こんなちいさな社殿のものが軽く400年以上の歴史を刻んでいるということにオドロク。

 ここから、来た道と反対方向に、下りの道があり、この先に「河合會良の墓」があるというので進んでみましたが、どうもあまり使われていない道のようで、結局発見することができずに反対方向の下道まで来てしまいました。ちぇっ。

 なお、河合曽良とは、1649年、現長野県諏訪市に生まれ、35歳の時に松尾芭蕉に入門。1710年に、巡見使一行の随員として壱岐勝本に来たものの、旅の疲れからか病床に臥し、当時海産物商を営んでいた中藤家で62歳の生涯を終える。
 曽良の墓は勝本城跡中腹の能満寺上の中藤家の墓地にあるのだそうです。

 う~む。山越えまでしていっぱい歩いたわりには、収穫は少なかったかな。



2 城山公園1 ~旧勝本町・勝本

 対馬の広大さから比べれば壱岐はぐっと小ぶりで、南の郷ノ浦から北の端の勝本まで走っても、ものの数十分で着いてしまう。このぐらいの大きさのほうが、「島」らしくていいよなあ。

 勝本の集落の手前にある城山公園へと行ってみます。
 ここは勝本城の城跡。勝本城は、1591年、豊臣秀吉が朝鮮出兵に備えて平戸藩主の松浦鎮信(しげのぶ)らに命じて海抜80メートルほどの山頂部に築城させたもので、国指定の史跡。文禄・慶長の役時には、兵士の食糧や武器などの補給や修理をする軍事基地の役割を果たしていたのでしょう。
 一の門と二の門の間にあった枡形と、その左右の石垣が残っており、蕉門十哲のひとりである河合曽良(かわい そら)の墓や句碑があるとのこと。

 城跡からは勝本の港を一望することができるというので、サバニ国道沿いにある広い駐車場に車を停めて、またまた山登り。この日はずいぶんヒーコラ山に登るよな。

 で、登って行った先にあったのがこの唐突な柱状物。ナンダコレハ?
 近くに立っていた説明版を読むと・・・。

《曽良翁終焉の地に諏訪の御柱を贈る》
 この巨木は、平成16年の式年造営御柱大祭に諏訪大社上社本宮に建てられた御柱で、境内地に鎮座した御神木である。
 平成22年庚寅年の大祭をもってその役目を終えたのを期に、諏訪に生まれ壱岐に客死した蕉門十哲の一人曽良翁の終焉の地である姉妹都市壱岐市に御柱を建立することを企画し、諏訪大社に請うて、諏訪市がこの御柱を譲り受けた。
 長野県無形民俗文化財「諏訪大社の御柱祭り」のシンボルである御柱を、壱岐市との末永い友好親善を願って、ここ勝本町城山の地に贈る。
 平成22年11月6日 長野県諏訪市

 ほほう、曽良つながりであったか。・・・でも、唐突だよな。


1 壱岐のレンタカー

 対馬をジェットフォイルで発ち、次なる目的地は壱岐の島。
 対馬から来て壱岐で降りる人は予想以上に多く、数十人いたでしょうか。列の最後のほうからジェットフォイルのタラップを降りると、ぬゎんと、目の前に予約を入れていた玄海レンタカーのおばさんが看板を持って立っていた。これはもう、迷うなどということは絶対ないな。
 沖縄の離島なんかだと、民宿の迎えが来ていないとか、もたもたしているうちにもうマイクロバスが行ってしまったとか、何かかにかあるものなので、こうも完璧にマークされてしまうとなんだか気恥ずかしさも感じたりして。
 それに、たまたまなのかどうか、対馬からのこの便でここからレンタカーというのは自分くらいのもののようだ。

 どうぞどうぞと一人だけワゴンに乗せてもらい、港の様子を見るいとまもなく営業所に向けて出発。
 さっそくやさしそうなおばちゃんに壱岐についていろいろ訊いてみる。
 御多分に漏れず人口が減ってきていることや、対馬とは違って韓国人観光客はほとんどいないこと、大きくない島なのでおおかたの観光地はたやすく見て回れること、高齢者が多く道が狭いのでゆっくり運転を心掛けたほうがよいことなど。

 郷ノ浦の市街をほぼ突っ切ったところにある営業所で手続を済ませ、24時間ちょうど1万円でスバルのステラをゲット。
 車の調子はなかなかよく、対馬のレンタカーより程度は上。エアコンの効きもこちらのほうがよさそうだ。

 さっそく発進して島のメインストリートに出ると、ここもまた対馬と同じサバニ国道!(笑)
 片側一車線の、とは言っても対馬よりもずっと平坦かつ幅の広い道路を、まずは一路、北の拠点勝本を目指します。
68 厳原港ターミナル ~旧厳原町・厳原

 納得のいく昼食で腹もくちくなったところで、ホテル金石館に戻って預かってもらっていた荷物を回収し、歩いてすぐの厳原港ターミナルへ。歩いて5分ぐらいかな。

 カウンターで予約済みのチケットを4,220円でゲットし、いよいよ対馬ともお別れだ。
 13時発、九州郵船のジェットフォイル124便で、壱岐・郷ノ浦港へと向かいます。

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 3世紀の魏志倭人伝に、「韓国よりはじめて一海を渡り、千余里にして対馬国に至る。…居る所は絶島にして、森林多く、道路は鳥と獣の小道のごとし。千余戸あるも、良田なく、海物を食らいて自活し、舟に乗りて南北にしてきす」云々と記述された対馬。
 人の暮らしは大きく変わったけれども、地形や道路のありさまなどは1800年の昔を髣髴とさせるものがありました。

 考えていたよりもずっと大きな島だったので、見たいと思っていながら見逃したところが多く、機会があればもう一度来てみたいと思えた島でした。なにもない、なんてご謙遜。いいところはたくさんある。
 何年かたってからふらりと再訪し、見逃したポイントを訪れたり、島の変わりようを確認したり、今回会えた方々に再び会ったりしてみたいなぁと思いつつ、乗船タラップへと歩を進めたのでした。

 さようなら、対馬!




 これにて「対馬編」は終了。次回からは「壱岐編」を掲載します。


67 対馬バーガーKiYoの対馬バーガー ~厳原の昼

 旅の3日目にして、初めての昼食。(笑)
 宿泊したホテル金石館の川を挟んでほぼ真向かいにあるこの店は、旅立つ前からぜひ寄ろうと思っていた店。
 地元のものにひとひねり加え、一風変わったハンバーガーを提供する店で、対馬のひじきを使ったパテと対馬で獲れたイカが入った「対馬バーガー」、対馬の郷土料理「いりやき」風に、地鶏のパテをスープに付けながら食べる「いりやきバーガー」、対馬名物、味付け豚の焼肉「とんちゃん」を挟んだ「とんちゃんバーガー」、郷土料理「ろくべえ」を飲みものにした「ロッピー」などがあります。どうです、おもしろいでしょ。

 首尾よく開店直後のウッディな店内に潜入してメニューを見ると、本日は「アリラン祭」が始まるのに合わせて「お祭り価格」なのだそうで、ハンバーガーにプラス200円でポテト、ソフトドリンク、サラダ、コーヒーがつくランチセットはお休み。しかもいりやきはなし。
 残念ですがいかんともし難く、対馬バーガーとコーラ、500+300円をお願いしました。

 値段は高いですが、さすがにできたては旨いです!
 牛肉のパテは、いかにも手づくりといった不整形ですが、そこいらの外資系ハンバーガー店とは異なり、しっかりした味とボリュームとジューシー感。肉汁がタップリなのだ。
 そしてそのパテには、なんとヒジキが存在感たっぷりに練りこまれています。
 バンズは、ふっくらではなく、切り口を少しカリッとくるくらいに焼き温めましたという秀逸なもの。でもって、このバンズとパテの間にはイカゲソが挟まっています。
 ヒジキ、ゲソを含むこれらが渾然一体となって生まれる食味と食感は、とても独特。なかなかいいと思う。腹も減っていたし、あまりにおいしいので、底に残ったソースとスープの混濁液までいただいてしまった
 ティアラにあるモスバーガーが早朝から営業していましたが、安易に妥協してそちらに行かなくてよかったな。


66 今屋敷公園 ~旧厳原町・厳原

 あ~、歩いた歩いた。疲れた。
 時刻は午前10時半。この後は「対馬バーガーKiYo」というハンバーガー店で昼飯をとり、厳原港午後1時発のジェットフォイルで壱岐へと向かう計画。しかし、そのハンバーガー店が開くのは11時半なのだ。

 それまで少し時間があるので、県立対馬歴史民俗資料館に寄ろうか、もしくはティアラあたりでメシを食べてしまおうか、などとも考えましたが、足の裏が痛いので歩くのはいやだし、せっかくだから初志貫徹ということで、たまたま見つけた厳原郵便局の裏手にある「今屋敷公園」というところで大休憩をすることにしました。

 ご覧のとおりいい木陰があり、パーゴラもあったりして、思った以上にくつろぐことができました。
 思えば、前々日の早朝からほぼノンストップで移動、運転、観光、飲みなどに没頭していて、本来得意であるはずのこういうぼーっとした時間って、あまりなかったものな。
 幸いホテルでの宿泊も連日「快眠」なので、身体的なダメージは足の裏だけで、そのほかはあまりない。
 3日間にわたる対馬の旅を脳内反芻しながら吸うタバコがうまい。

 ここでぼーっとしていた数十分の間、自分以外にこの公園を訪れる者はなく、いわば貸切状態。前の通りを行く人は、3人以上なら韓国人観光客、男女2人連れなら日本人観光客、1人なら地元の人デアル、ということが概ねわかったあたりで時計が11時半を回ったので、それでは「対馬バーガーKiYo」に向かうことにします。

 なお、下の写真は、厳原の町なかにあった古い商店。「飯束商店」という現役の店で、築100年を超える商家なのだそうです。
 御主人が高齢で、ここもこのご主人の代で店をたたむことになるのかもしれません。

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65 金石城跡 ~旧厳原町・厳原

 万松院に向かう途中に、画像にあるような立派な櫓門が目に入りましたが、その周辺で複数の韓国人団体客が大声でしゃべっていたので、まずは万松院へと向かい、その後にこちら、金石城跡(かねいしじょうせき)へ。静かになっていて正解でした。

 金石城(かねいしじょう)は、1528年に宗氏一族の間に内紛があり、それまでの屋形「池の館」が焼失したため、当時の島主の宗将盛(そう まさもり)が、もと国分寺のあった金石の地に移って屋形を築いたのが始まり。
 1665年、対馬藩3代目藩主・宗義真(そう よしざね)が、その金石屋形を拡張して城郭整備を行い、1669年にこの櫓門を築いてからは、金石城と呼ばれるようになったとのこと。
 金石城は、天守閣をもたない平屋の館で、朝鮮通信使の一行もまずここに宿泊し、その後に日本本土へと渡ったそうです。
 1678年に桟原(さじきばら)に新しい屋形が完成するまでの150年間は、ここが宗家の居城でした。

 櫓門は文化年間の火災で焼失し、再建されましたが、大正時代に再び解体。現在の櫓門は1991年、記録に基づいて復元された3代目のものなのだそうです。
 この櫓門をくぐって中に入ると、そこは建物などのない広場になっており、なんだかつまらない。

 なお、その先には「旧金石城庭園」がありますが、こちらは近年の発掘調査により復元されたもので、2008年から一般公開中。有料だし、興味が湧かなかったのでスルーしてみました。

 園内には「李王家宗伯爵家御結婚奉祝記念碑(りおうけ そうはくしゃくけ ごけっこんほうしゅくきねんひ)」があります。
 1931年、宗家当主・伯爵宗武志(そう たけゆき)と、朝鮮李王朝第26代・高宗と側室・梁氏との間に生まれた徳恵翁主(とくへおんじゅ、日本では李徳恵姫(り とくえひめ))の結婚を祝い、2001年に対馬、韓国双方による「記念碑復元実行委員会」が建立したもの。
 二人は、戦後の両国関係が悪化する中、誤解や風説が流れ、1955年にやむなく離別。徳恵は1989年に故国で永眠、貴族院議員となった宗武志は1985年に逝去。
 ここは韓国人観光客が必ず訪れる場所で、韓国人ガイドは一段と声を大きくして徳恵翁主の数奇な運命と日帝の陰謀をここぞとばかり熱弁している・・・とのこと。君たちは日本に来てまでそーゆー話をしているのですか。

 なお、スルーした金石城庭園について。旧厳原町教育委員会立の説明版から抜粋。
 旧厳原町が金石城跡を公園化しようと、1991年度から整備を始めたところ、城跡北西隅の多門跡(説明版の場所)から石敷遺構が発見され、調査した結果、文化年間(1804~1817年)に作成された城郭古絵図に一致する遺構(櫓門、石段、門の敷石、場内の石垣)が確認されました。
 金石城は、1528年、宗家14代将盛がこの地に屋形を造営したもので、桟原に新たな居館ができるまでの約150年間、宗家の居城であり、その遺構については本格的な調査が必要であるとされていました。
 今回の確認調査により、町では金石城跡の保存に向けた整備方法を検討中。
64 万松院 ~旧厳原町・厳原

 少し痛くなってきた足の裏のことはなるたけ考えないようにして、また、団体客のワーキャーの横を気づかないふりをして通り抜け、厳原市内最大の観光ポイントと目される万松院へ。そうそう、対馬なんて見るものはそうないと考えている居酒屋「けい」の女将も、ここにだけはぜひ行っておけと言っていたな。

 だらだらとした一本道を登りつめると正面に山門がドーン。(画像)



 この存在地及び正面の門構えからして、すでに威風堂々。嬉しいことに(失礼!)、韓国人はこのような名刹には興味がないようで、少人数の日本人客がチラホラといったところ。

 ここ万松院は、2代目藩主・宗義成(そう よしなり)が、父・義智(そう よしとし)の冥福を祈って1615年に建立したもので、宗家の菩提寺として特別の崇敬を受けてきた寺院です。
 桃山様式の山門、徳川歴代将軍の位牌、朝鮮国王から贈られた三具足(みつぐそく)などが公開されています。

 まずは正面に構えた山門は、両袖が朱に塗られて立派。
 その山門はくぐらず、その左側にある料金所?で拝観料300円を支払い、本堂へ。本堂では、後水尾天皇というから17世紀の前半頃に皇室から賜ったという「万松精舎の額」や、ただの置物であるかのように無造作に置かれたの「三具足」を拝見。それぞれ価値はあるのでしょうが、本堂を案内する録音テープがいかれてループするところがあり、その語り口には苦笑せざるを得ません。

 次に、本堂を出て裏手の墓地へ。眼前に現れた長く続く「百雁木(ひゃくがんぎ)」という132段の石段のたたずまいは見事!(画像)

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 まっすぐで緩やかな勾配をもち、両脇には昔のままの石灯籠がずいーっと。一歩一歩進んでいくにつれて心の中が洗われるようです。幸いかしましい連中は一人としていないし。(笑)
 百雁木を登っていくと、歴代藩主やその妻・側室などの墓があちこちにずら~り。国境に浮かぶ辺境の島にこれほどのものがあるとはと、ちょっとしたオドロキの光景でした。
 墓石のうち宗義成・宗善真のものは最大で、以降、墓石の規模は徐々に小さくなっていくのがわかります。そのことは、朝鮮貿易の盛衰による対馬藩の財政力の変動をそのまま反映しているかのようです。

 墓所から戻り、出ようとすると、そこには「諫鼓(かんこ)」というものが。鉄製の柱の上にでんでん太鼓のようなのものがくっついている、という妙な形をしています。これ、領主に対し諫言しようとする人民に打ち鳴らさせるために設けた鼓、なのだそう。
 「諫鼓苔蒸す」は、諫鼓を用いぬことの久しい意、「諫鼓鳥」は、諫鼓の上に鳥が遊ぶ。諫鼓を用いる必要がない意で、共に領主が善政を施すのを言うのだとの解説書が脇に。
 う~む。まことしやかではあるが、「かんこどり」って、「閑古鳥」じゃないのか?

 もともと臨済宗だった宗旨を、1635年に天台宗に改めて現在に至っているとのことでした。

 山門の脇に記されていた「万松院(対馬藩主宗家墓所)」の説明書きを移記しておきましょう。
 『元和元(1615)年、宗家20代義成(よしなり)は、朝鮮出兵、関ヶ原の戦、対朝鮮和平外交と苦難を重ねた先代義智(よしとし)公供養のため、金石屋形の西の峰に松音寺を創建した。
 元和8(1622)年、義智の法号に因み、寺号は万松院と改められた。山号は鐘碧山。
 正保4(1647)年、現在地に移り、宗家累代の菩薩寺となった。
 百雁木と称する石段をのぼると御霊屋(おたまや)がある。上御霊屋に第19代義智公から第32代義和(よしなり)公までの歴代藩主と正夫人の墓、中御霊屋には最上段に第10代貞国公の墓があり、他に側室と幼児の墓がある。下御霊屋には一族などの墓がある。
 上御霊屋の格別大きな墓石は義成公と義真(よしざね)公の墓で、好況な朝鮮貿易が藩財政を潤した頃の藩主である。
 堂宇は元禄と享保の大火のため幾度か改建された。山門だけは焼失をまぬがれ、現存する対馬最古の建物で、桃山様式を伝える建築物として貴重である。 厳原町教育委員会』


63 対馬市役所 ~旧厳原町・厳原

 歩き始めて1時間半ほどしか経っていないのだけど、なんだか歩き疲れてきたぞ。
 その理由は大きく3つ。ひとつは、まず暑いこと。2つめは、ビーサンの底がすり減っていて地面の硬さが直接伝わってくること、そして3つめは、雨森芳洲の墓を見るための長寿院の山登りだ。

 この後今度は西側の山手にある万松院を見るのだが、足が進まないのだけど。
 それに、近くの金石城付近はたくさんの韓国団体客でやたらとにぎにぎしく、近づくにはかなりの勇気がいる。(笑)
 ということで、登り道の始まるところにある対馬市役所を眺めるふりをして少し休憩し、タイムラグを設ける。土曜日なので役所は休みだし、ちょうどいいということもある。

 対馬市は、2004(平成16)年3月、対馬島内の厳原町・美津島町・豊玉町・峰町・上県町・上対馬町が合併してできた市。しかし、自分が参考にしている「日本の島ガイド SHIMADAS」が、2007年発行であるものの、1998年の初版をベースとしているため、旧市町村単位の整理のまま。なので、このブログも旧市町村に区分してタグをつけています。
 合併協議会での妥協により、市役所は旧厳原町、市議会は旧豊玉町、市教育委員会は旧上対馬町に分かれて置かれているんだって。
 また、対馬市の人口は、合併当時は約4万1,000人だったものが、8年後の現在は3万5,000千人を割っており、人口減少、過疎は深刻なようです。
 市木は、ひとつばたご。市花は、玄海つつじ。市鳥は、高麗きじ。


62 半井桃水館 ~旧厳原町・厳原

 警察署や裁判所が立ち並ぶ馬場筋通りと厳原本川に囲まれた半円形の区域の中村地区も、古くは武家屋敷が立ち並んでいたところ。そして中村には、樋口一葉の小説の指導者であり、恋人でもあった半井桃水(なからい とうすい)の生家跡があり、そこには「半井桃水館」が建っています。

 歩いていると、朝であってもハンパなく暑い。なので、「聖ヨハネ教会」を見たあたりでややタハタハ状態になり、開館時間から間もない半井桃水館の庭で小休止。親切にもここには灰皿が置かれたテーブルと椅子がある。中には入らず。(笑)

 半井桃水は、明治期の新聞記者・小説家。対馬出身で、日露戦争時には従軍記者として活躍したのだそうです。
 建物のあるこの地厳原町中村地区は、桃水の出身地であり、現在も城下町の風情が残っています。

 中庭に設置された看板「半井桃水」を移記。
 『半井桃水は万延元(1860)年12月2日、半井湛四郎の長子として対馬の府中(厳原)に生まれた。
 本名は冽(きよし)、幼名を泉太郎、菊阿弥、桃水痴史などと号した。家は藩の典医で宗家に仕えた。
 泉太郎は、父の任地釜山の倭館で働いたのちに帰国し、明治8(1875)年、16歳のときに上京し英学塾「共立学舎」に学んだ。
 桃水は、明治15(1882)年、ソウルで起こった京城事件(兵士の反乱)の現地報道を送ったことが契機となって、明治21(1888)年、東京朝日新聞社に入社した。桃水はこの前後より小説を書き始め、翌明治22年同紙に「唖聾子(おしつんぼ)」を発表、以後、時代物から現代ものまで流麗な才筆で読者を魅了した。
 樋口一葉(1872~96)が、小説家志望の意思を伝え指導を仰ぐため桃水のもとを訪ねたのは、ちょうど東京朝日新聞に「胡砂吹く風」が掲載されていた明治24(1891)年、一葉20歳、桃水32歳の初春4月15日のことであった。一葉の桃水に寄せる思いが 、25年という短い生涯を通して消えることがなかったことは、死後発表された「日記」によって明らかなところである。
 大正15(1926)年11月21日没。享年67歳。墓は東京都文京区駒込の養昌寺にある。戒名は観清院謡光冽音居士。』

 またまた「半井」という姓について、かつてNHKに出ていたお天気キャスター半井小絵(なからい さえ)を連想。
 調べてみると、半井小絵は兵庫県伊丹の出身。「半井」の全国世帯数は188戸で、その人口は全国第9,877位なんだって。ウェブってすごいね、なんでも調べられる。
 和気清麻呂の子、和気広世は医学に長け、日本の宮廷医、和気家、半井家の始祖となった、という記述もありました。