☆「南海の歌と民俗」(ひるぎ社おきなわ文庫)から

 沖縄の民謡界は昭和の初期より創作民謡が目的意識的に追求され、大衆と共に歩んできた。当時の民謡は比較的民謡の「こころ」が大切にされ、南島沖縄の風俗や社会事象、人々の思いが深くこめられていた。ところが、昭和40年ごろを境に沖縄の民謡ほ新しい局面に入った。それは職業的歌手の大量登場によってである。ここで断っておかねはならないのは、職業的民謡歌手の存在を否定するものではない。むしろ洗練された芸の極致は価値の高い芸術と思うが、問題は林立している民謡研究所や歌手の民謡に対する姿勢をいっているのである。
 そして、マスコミ主導の風潮は、民謡の明日に多くの波紋を巻きおこしている。民謡の背景を無視した派手な衣裳、賑やかな伴奏楽器と舞台、ウチナーグチ(琉球方言)からヤマトグチ(共通語)への変化にみられる流行歌的民謡、コンクール一辺倒の画一的節まわし、物まね。一体、そういう形でこれからの民謡はいいのだろうか。民謡というからには当然、郷土性が香るべきで、その土地特有のことばが基礎となり、南鳥の自然的社会的特性が生かされなければいけない。個々の民謡は、その地域の文化と切り離しては考えられないのだ。だからこそ、郷土性を失った民謡は民謡ではなく、流行歌でしかないといわれるゆえんである。
 われわれが民謡を考えるとき、地域に下りてその地の風土と人々の暮らしその関連で考えようと訴えているのは、そこに民謡の原点があるからにほかならない。そして、遥か遠い祖先が歌ってきた古謡までさかのぼって考えてみようというのも、過去、現在、未来へ向う歌謡史の流れの中で、しっかり考えたいからである。
 現代に生きるわれわれは今一度「うた」の原点に戻って、この地球上で歌をほんとうに生活の一部として大切にしている社会があることに注目し、考えてみることもいいことであろう。これらの社会はアジアやアフリカの発展途上国であるが、われわれはそれらの地域からむしろ原点的内容を鋭く突きつけられているといえよう。
 かつて、沖縄の農村社会もそうであったように、今日のアジア・アフリカの地域では「生きること」と「うたを歌う」という行為は同じ意味をもっていたようだ。だが、われわれは歴史の歯車を逆に回すことはできない。歌が生活と密着していた昔へ回帰できないのだ。そうではあっても、われわれは民謡の真の姿を追体験する作業は可能である。そこに民謡研究の意義もある。
 沖縄民謡の明日を期待するならば、歌が人々の生活と密着していた、その生態を知り、自然発生的口承民謡をどれだけ深く理解するかにかかっている。そして、それをバネに新しい時代にあって、沖縄の人々の気持と南島特有のリズムやことばで、民衆に力づよい息吹を与える創作の世界が求められているといえよう。

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☆「島唄を歩く1」(琉球新報社刊)から

 戦後沖縄民謡黄金期を築いた最大の功労者・小浜守栄(1919~2002)をご存じだろうか。第一線から退くのが少し早過ぎたため、若い島唄ファンはよく知らないと思う。氏の情熱と行動力がなければ今日の島唄=民謡の興隆はなかったと言っても過言ではない。焦土と化した故郷の混乱の中で、信念を持って沖縄民謡を先導した功績はもっと認知されて良い。
 今回は2002年8月27日に83歳で亡くなった、小浜守栄の島唄の軌跡を歩いてみたい。筆者は92年4月16日と01年9月16日の2度にわたり、沖縄市内の小浜守栄宅を訪ねインタビューを行った。その時伺った話を交えながら彼の足跡をたどることにする。

――お生まれは大正8年ですか?
小浜守栄  そう、3月10日。

――三線を始めたのは?
小浜  小学校4年の時。私の親は古典音楽のたしなみがあり、三線箱には三線がいつも2丁あった。それを取り出して最初に弾いたのが「上り口説」。

――村芝居やエイサーの地謡なども?
小浜  エイサーは部落のきまりで15歳にならないとさせてもらえなかった。私より7歳上の兄もよく歌った。次男は早く亡くなって、私は三男。 

 小浜守栄、越来村(現沖縄市)諸見里出身。父・守蒲の影響を受け、常に傍らには三線があり、古典音楽を子守唄代わりに育つ。一歳年下の嘉手苅林昌とは、諸見里の桃山を抜ける通学路も同じ遊び仲間。青年時代にはエイサーの地謡をつとめ、毛遊びでも三線を弾いていた。
 19歳の頃、海軍省の募集で農業人夫として南洋群島へ出稼ぎ。22歳でポナぺ島にて現地召集され中国大陸へ渡り、北へ南へと行軍の末、タイでイギリス軍の捕虜となり半年間の強制労働、その後復員。

――南洋で徴兵ですか?
小浜  私は西軍22部隊、工兵37連隊。満州は奉天から北支、中支、南支とまるで夢でも見ているみたいに歩かされた。あっさみよー、哀りやたんどー。

――その後沖縄へ?
小浜  まずは横須賀。そこで少しの復興資金を軍から貰って、広島の呉を経由して帰ってきた。とにかく沖縄の家族親戚のことが心配で一刻も早く帰りたかった。

――帰ってきた沖縄は?
小浜  何もない。みんなテント暮らし。馬車持ちゃーしようにも馬もない。大きな山羊みたいな馬を買って塵拾いの仕事。私の場合は、瑞慶覧の米軍クラブに知り合いがいて、その紹介で何とか仕事にありついて、人間らしい暮らしができるようになった。女はみんなアメリカハニーになって、沖縄中が乱れている時代だった。

 やがて野村流古典音楽家・照屋林山の門をたたき古典音楽の研究をする傍ら、普久原朝喜のレコードを聴き込み独自に民謡修行。戦後も異民族支配が続く乱れた時代に沖縄の心を取り戻せる唯一の方法は三線音楽という信念と使命感を持って、ことあるごとにひたすら歌った。
 そんな折、幼なじみの嘉手苅林昌が帰ってきた。二人は顔を見るといつも三線の手合わせをした。小浜は地域の行事やお祝いがあると嘉手苅を誘った。近くに住む山内昌徳や喜納昌永も加わって民謡研究が始まった。古い民謡を発掘して、それをエイサーに取り入れたり、創作においても『月と涙』や『ラッパ節』など常に新しい感覚を提供した。
 研究者としてはリーダーの揺るぎない存在感を示しながら、表現者としては大いなるサポーターであった。従って彼のソロレコードというものは少なく、大抵は合唱であったり、伴唱や伴奏役であった。若い民謡研究者には小浜守栄の音源を聴き込んで、ぜひあの唱法そして奏法を勉強してもらいたいものだ。

――嘉手苅さんといろいろなところを回られた?
小浜  お祝いの時など嘉手苅小(ぐゎー)を誘って沖縄中何処までも行った。

――レコードが少ないのでは?
小浜  私はどうも年配者に見られて、いつも相談役。

――民謡ショーもされたのですか?
小浜  嘉手苅小と山内昌徳と三人で安慶名とか園田の劇場でやった。あの頃は「民謡ショー」とはいわずに「歌芝居小(ウタシバヤグヮー)」といっておった。

 67年、民謡研究25周年を記念しての「民謡の祭典・小浜守栄リサイタル」(6月22日コザ琉米親善センター、23日那覇牧志ウガン)に照屋林山は次の祝辞を寄せた。
 「彼がその美声と絶妙なるバチさばきによって、戦後の混乱した社会における文化的渇望にこたえて以来20余年、彼の果たして来た役割とその功績は誠に偉大なるものであります」。


☆「島唄を歩く1」(琉球新報社刊)から

――奄美の歌会をプロデュースして大きな手応えを感じたということですね?
仲宗根幸市  沖縄のものでは「今帰仁ミャークニー大会」という独自のイベントを企画した。当時は教育委員会はじめ皆反対。趣旨がよく理解できなかったみたい。生きた形で歌を伝承させたいと主張しても、こんな田舎でやる意味があるのか、録音しているから必要ない、とか。それにコンサートできる会場もない。村役場ホールの2階で折りたたみ椅子を運んできてという感じ。

――孤軍奮闘ですか?
仲宗根  私等が那覇から何度も通って取り組んだら、商工会と老人クラブが協力してくれて助かった。各組織の有志たちは、自分や年寄りの伝承では心細いと思っていたところへ、私たちの企画が基礎づくりをしてくれたと、逆に彼等の方が燃えてね。とても反響があった。年長者から歌を習おうという運動が起こり、となりの本部町からも声がかかってきて、2年後には「本部ミャークニー大会」も催した。あとはお分かりの通り、琉球民謡協会などが組織的に取り組んだり、地域がその地域にある民謡の大会を催したり。行政の方が文化的なものを避けて通るわけにはいかない時代になっていく。

 1982年4月17日、今帰仁村役場ホールにて「今帰仁ミャークニー大会」は開催され、会場には約500人の老人クラブ会員、村民、愛好家が詰めかけた。『しまうた』第9号(しまうた文化研究会発行)は大会の意義について、今帰仁ミャークニーの伝承者を一堂に集めて各部落特有の歌を紹介し、伝承者の実態把握と、将来について考える足がかりにするということ、と総括している。その取り組みはささやかながら一定の方向性を示し得た。

――ミャークニーはやはり今帰仁が一番古いですか?
仲宗根  今帰仁が発祥地だという言い伝えは年寄りからずっと聞いていた。ただ発祥地といっても、各字で節回しが違うものだから、村の東と、本部の具志堅に近い今泊とか、中央部では異なっている。レコードを出せるくらいの実力のある人でも地元の節回しが分からない。また、歌遊びが消えてしまったので、本歌うたう人と囃し手と独立してうまく溶け合わない。非常に残念な状況になっている。かつてはトバラーマのような世界だったという。トバラーマなども聞き取り調査してみると、八重山のトバラーマ、宮古のトーガニー、沖縄のミャークニーなどは、歌い方が非常に近かったと聞いている。実際に年配者に今帰仁ミャークニーを歌わせたら、形式的な面でかなり近いところがある。これは今の歌い手たちにぜひ知ってほしい。

 琉球王朝時代、首里へ御殿奉公していた今帰仁の若者が、宮古の若者の歌を聴き、その哀愁と叙情あふれるメロディーに感激して持ち帰り、今帰仁風に歌い、毛遊びの場で歌い広めたという。従って宮古から出た歌として宮古根(ナークニー)と当てている。今帰仁では「ミャークニー」とか「ミャークンニー」と呼んでいる。「今帰仁ミャークニーの生命は、本来、歌掛けである。数ある南島の共通歌詞から、その場にふさわしい歌詞を選び、ある場合は即興で叙情性の高い思い入れと、人間愛の優しさが歌にならなければならない。そして男が歌えば女が囃し、女が歌えば男が囃しを入れる」(仲宗根幸市著『しまうたを追いかけて』)。

――門付け芸の類は沖縄でも根付いたのですか?
仲宗根  これは非常に冷遇された。チョンダラー(京太郎)なんかは人間の最も悲しい場面や、逆にかりゆし(めでたいこと)も引き受ける、重要な部分を担っていた。その意味でもチョンダラー芸は真剣に見直すべきだと思う。

――今の若い人はチョンダラーを道化師のことと思っている?
仲宗根  琉球王府が置かれた首里で最も劣悪な環境、卑しい身分に追いやられた芸能集団。乞食同然でニンプチヤー(念仏者)と呼ばれ、長らく封建社会のしがらみの中で蔑視されていた。廃藩置県後にヤンパル下りして、名護や宜野座の村踊りなどの芸に取り入れられ、かろうじて日の目を見ている。本来なら、すばらしい芸能として称賛されなければいけないのに。私の幼い頃、今帰仁村の湧川に七福神芸を普及させ、村踊りとして上演できるようにしたてた立役者がいたのを覚えているわけ。踊りも終盤、みんなが眠たくなってくると、パーッと花咲く芸がある。誰もが待ってましたと拍手喝采で迎える、湧川の村踊りの活力源ともなった芸の伝道者こそが“クガニヤマー”というチョンダラー芸を保持していた人物であった。チョンダラーはヤマト芸能を各地に運んだ文化の使者であった。


 (「沖縄を語る 金城芳子対談集」(ニライ社刊)から)

金城芳子  今、ふともう一度思い出したのは、多嘉良朝成さんのことね。役者の人気投票で最高になった人。さっきはこの役者について、あんまり話も出なかったけど、あの人はおもしろい役者だったよ。
古波蔵保好 そうでしたね。あの人のような、何でもできる役者はもういないみたいで……。非常に歌のうまい人でした。何かの催しで、多嘉良朝成さん夫婦が歌の共演をして、お二人ともたいへんな美声だと感じたことがあります。曲目は、たしか「根間の主(ニーマヌシュウ)」だったような、いやたしかに「根間の主」でした。あれ以来、これはすばらしい歌だ、とわたしは「根間の主」という曲が大好きになったのですから。
芳子  そのとおりよ。「根間の主」と「トバルマー」は得意の芸だったね。
古波蔵 奥さんのほうは、いわばソプラノの澄みきった、まるみのある声で、夫の朝成さんも澄んだ美声でした。二人の三線もイキがあっていて、男女の合奏としては今までに聞いたなかで最高だったと思いますよ。
芳子  役者としては、王にもなれるし、剽軽な男も演れて、そのうえ踊りがうまい。
古波蔵 柄は大きくなかったですがね。これまた何の催しだったか、うろ覚えになってしまいまし
たが、たぶん義捐金募集の芸能大会ではなかったでしょうか。それで思いだすと、夫婦合奏で「根間の主」などを歌ったのも同じ催しでだったかもしれない。とにかく多嘉良さんが「高平良万歳(タカデーラマンザイ)」を踊ったのですよ。柄は小さいのに、踊りだすと魅力がありましてね。きまるところがきびきびときまって、さわやかな印象を受けたのが、つよく記憶に残っています。
芳子  あのころの役者は踊りもうまかったよね。渡嘉敷(守良)さんがそうだったし、伊良波(尹吉)さんの「チク踊イ」は類がなかった。その伊良波さんの「鳩間節」がすてきで――。
古波蔵 真境名由康さんは、舞踊劇を仕組むのに熱心でしたね。代表的なのは人盗人(チュヌスビトゥ)」でしょうか。組踊を舞踊劇にした「人盗人」がはじめて上演されたのは、珊瑚座が旭劇場を常打ちにしていたころだったと覚えています。わたしも、組踊の長々とつづくせりふには退屈するような、まだ組踊になじめない年ごろだったので、舞踊劇になった「人盗人」をおもしろく見たものです。まあ、組踊を大衆的にしたといえばいいでしょうか。戦後は国立劇場でも、舞踊劇になった「人盗人」を真境名さん自身がお演りになりましたね。要するに組踊そのものには退屈するヤマトンチュ向きだともいえるでしょう。
芳子  多嘉良さんの芝居といえば、「忠臣蔵」が上演されてね、内匠頭(たくみのかみ)を伊良波さん、大石を多嘉良さんが演ったよ。
古波蔵 「忠臣蔵」なら、私もずっとのちに珊瑚座が上演したのを見ました。義太夫ぬきの仮名手本忠臣蔵でしたね。東京の歌舞伎座あたりで義太夫ぬきの「忠臣蔵」など、気のぬけた舞台になるはずですが、当時の沖縄で義太夫を語れるのは、奥武山公園の入り口、渡地(ワタンジ)から北明治橋を渡ったところの小高い城壁の上に建てられていた沖縄では格式の一番高かった日本料亭「風月樓」の芸者くらいではなかったでしょうか。「風月樓」には歌舞伎の演れる芸者が揃っていましたね。
 一年に一度、稲荷様の祭りには、大正劇場で「稲荷芝居」を催して、歌舞伎を演る。東京から沖縄に帰り、新聞記者になってから歌舞伎を見る機会のなくなった私にとっては、一つの楽しみでした。「義経千本櫻」を見たし、“おもちゃ”という中年芸者が「太閤記十段目」を熱演するといったぐあいに、なかなかの見ものでしたよ。
 私の母は好奇心の強い女だったので、一度つれていったら、ヤマトゥグチの、しかも歌舞伎のせりふまわしがわかったのか、ひきつけられるようにして見ていました。その“おもちゃ”さんも、あのころのいい役者に加えていいのではないでしょうか。そういうわけで、「風月樓」には義太夫語りの芸者もいたけれど、沖縄芝居に出るわけもなく、だから、珊瑚座の「仮名手本忠臣蔵」が義太夫ぬきでも、当たり前のような気持で見たのですよ。
芳子  せりふはヤマトゥグチ?
古波蔵 そうです、歌舞伎風に――。
芳子  大石を演ったのは?
古波蔵 まるで覚えていないのです。柄からいって、真境名さんだったかもしれません。はっきり覚えているのは七段目、茶屋遊びの大石――歌舞伎では大星由良助ですが、この大星がうたた寝をすると、平右衛門がそっと近寄り、ふとんをかける時の仕草が、東京で見た歌舞伎の型そっくりでしたから、一応は歌舞伎の「忠臣蔵」を知っている人に教えられたのでしょうね。平右衛門を演ったのが比嘉正義さんでした。
芳子  あっ、フィジャーね。
古波蔵 チャンバラも得意な役者でしたよ。東京、大阪でさかんだった剣劇の影響なんでしょうね。金城さんは東京に住んでいらっしゃるので、ごらんにならなかったかもしれませんが、侠客物の飜案らしいのをよく演っていました。侠客は、よく「男をみがく」などというでしょう。ところが沖縄には「男をみがく」なんていうヤマトゥグチに相当する言葉がない。この言葉をウチナーグチになおせなくて、比嘉さんは、「ウィキガミガチュン」などといって、見栄を切っていましたね。楽しく笑わせてもらいました。
 昭和9年ごろでしたか、「琉球新報」が山里永吉さんの小説を連載して人気があるのに対抗して「沖縄日報」は、日活映画のシナリオを書いていた石川文一さんが帰郷したので、小説の連載を頼んだことがあります。「弓張月」を現代語にうつしたのがおもしろくて、これを珊瑚座が芝居にしました。すると源為朝に敵対する悪役を比嘉さんが演ったら、声は大きいし、ふてぶてしい演技がとてもいい。線の太い悪人像ができたのにはおどろきました。比嘉さんは、これで役者として急成長したように思いましたね。
 のちに「黒金座主(クルガニザーシュ)」が得意中の得意芸になって、まことにふてぶてしいエロ僧ぶりで、それは久しぶりに連鎖劇でした。「座主」は忍術使いですから、ドロンドロンという場面を映画で見せる趣向でね。沖縄芝居はすべて大衆娯楽といっていいが、比嘉さんが演るのはその大衆娯楽に輪をかけたような大衆娯楽で……。
芳子  ユニークな役者がいたわけよね。
古波蔵 ええ、雑踊りがうまくて、とくに「カナーヨー」の軽妙さときたら、まねができない。国立劇場に、はじめて沖縄歌劇が行ったときに踊ったのでごらんになったでしょう?
芳子  総じて昔の役者は、踊りにも独自のよさがあったよね。
古波蔵 また多嘉良さんのことになりますが、一度だけ、多嘉良さんが組踊「忠孝婦人」の「間の者」を演ったときに見まして、剽軽なおしゃべりが聞きものでした。あれだけおかしく、しかも調子よく「間の者」のおしゃべりを聞かせた役者は珍しいと思いますよ。役者の中には、悲劇を演ってお客を泣かせるのは得意だが、笑わせるのはだめという人がいますね。だが、大悲劇を演じて客席を感動させる反面、大ふざけにふざけて、しかも下品にならない舞台をつくれるのが、ほんとのいい役者で……。
芳子  そうよね。泣く演技より、うまく笑うのがむずかしいといわれるほどだから。
 それでは時間もたったし、また会いましょう。今日は楽しかった。いい時代を思いだして……。私は辻で生まれ、芝居をみて育ったためか、芸能が好きで好きで、だからあなたと会うのがうれしかった。戦後はアイデンティティに目覚めて、いい踊手、役者が育ってくるようで、これからが楽しみさ。長生きして保存と創造を全うした芸能をあの世へのお土産にしましょう。


 星一つない暗い夜であった。その日午後から、島をたたくように降りつづけた強い雨はやんでいた。だれもが息をこらしてその“とき”のくるのを待っていた。1972年5月14日午後11時59分――。私が沖縄にかかわるようになってから16年目にやってきたその瞬間なのだが、不思議と、この長い十数年、そのときを私が沖縄のどこで迎えるか、迎えるべきかといったことは一度も考えたことはなかった。
 ただ、結果としてその“とき”、やっぱり〈コザ〉だったか、と思った。私は〈沖縄復帰〉のその“とき”をコザで迎えたのである。別に大きな意味はない。今夜午前零時を期して、コザ市に画した米軍基地のゲートを学生集団が襲撃する、との情報が私の耳にはいったので、それを現認取材しようとしたまでのことである。時計の針はいともかんたんに午前零時をさした。市役所のサイレンが鳴りひびき、車のラジオからは船の汽笛が流れただけであった。なんにもなかった。
 10分後、27年にわたってこの島と民衆を統治しつづけた米国国務長官代理・琉球列島米高等弁務官が専用機でコザの町の上を飛び、島を去った。ジェット機の爆音が暗い夜空にひびいていた。ゴロゴロとうなるエンジンは明らかに噴射を強め、遠くへ遠くへと加速度をあげているようである。もうこの島には〈王様〉はいない――そんな実感が私の体をゆさぶった。不思議なほどの快感であった。
 午前2時、コザ市内のレストランで五目ソバをたべた。水っぽくてたいそうまずかった。70セント、これがドルで喰う最後のメシかな、などと思いながらたべた。3時、また強い雨が降りだした。那覇に帰ると、新聞社の輪転機がうなりをあげて〈復帰後第一号〉の新聞を刷っていた。大きな見出しに「変わらぬ基地、つづく苦悩」とある。一面トップぶちぬきの見出しである。支局の中でイスを3つつないで仮眠――。
 午前4時、取材機のパイロットに電話。この雨では日の出もないのですぐには飛ばぬという。雨がこぶりになったすきを見はからって午前8時半、那覇から約百キロ西方の久米島へ向けて飛ぶ。空から見る那覇の町も島々も低い暗雲をうけてよどんでいる。たとえ晴れていたとしてもこの島々には晴れやかな祝賀ムードはあるはずがない。写真一枚撮る気になれぬ5月15日の初飛行である。
 午前10時35分、手ぶらで那覇にもどり支局に帰る。テレビは東京と那覇で平行して催されている復帰記念式典を、カラー中継で放映している。佐藤総理大臣とアグニュー米副大統領が固く手をにぎり合っていることが空々しく迫ってくるが感動なし。
 午後2時、沖縄県発足式典。戦没者と戦後27年の問に死んだみたまにたいして、〈復帰〉を報告し追悼する1分間の黙とう。目を閉じると、私の周囲に在って亡くなっていた友、知人、親戚の人、そして早くして生命を断った私の弟の顔、さまざまな顔がつぎつぎと襲う。すべてから遠ざかり〈復帰〉の日まで、と沖縄のみに身を寄せた自分の不義理をわびる。同時に、まったくむなしいばかりの不完全な〈復帰〉になってしまったことをわびる。1分間の時間が10秒か20秒ほどにしか思えぬほど短い。
 午後3時。雨はますます強く、やむことを知らぬ。復帰協主催の〈沖縄処分抗議大集会〉。会場はどろんこ。参加者はずぶぬれ。みんなが〈真の復帰を!〉と叫ぶ。
 これよりさき、午前6時、チャーター船で本土から600人の機動隊が那覇に到着。復帰後本土から一番乗りの〈客〉。7時、米陸軍司令部などに星条旗とならんで日の丸の旗があがる。金アミの中に――。過去27年、民衆を圧迫しつづけた金アミの内側に日の丸が――。
 嘉手納基地からはジェット機が西の空へ向って次々と飛び立つ。去っていくのではなく出かけていき、また還ってくるのだ。アメリカの放送施設VOAは中国大陸や「北」朝鮮に向けてきのうと同じように声を張りあげる。なにもかもきのうとは変わらない。
 時計の針が14日から15日を指す、ただそれだけで27年も待った〈復帰〉が実現するのなら、なぜもっと早くこの日はこなかったのか、とそのとき思う。だが〈沖縄〉は、きのうときょうというだけで、なにも変わることもない。無感動な私の〈5・15〉。

(「ミーニシ吹く島から 極私的沖縄論」(アディン書房刊)から)
2013.03.27 ジュリ馬行列


☆「沖縄暮らしの家族ごはん」(伊藤麻由子著、双葉文庫)から

 旧暦1月20日に行われる琉球350年の伝統を持つ行事、「二十日正月ジュリ馬行列」。二十日正月は「はちかそーがち」と呼ぶ。辻には琉球時代に女の里があり、女性たちはジュリと呼ばれた。ジュリたちが年に一度、踊りなどを披露しながら祈願して歩いたのがこのジュリ馬行列の由来である。
 かの柳宗悦は、「全国広しといえども、沖縄の『二十日正月』ほど女の哀感と心優しさが胸打つ祭りを私は知らない」と表現している。現在では数百名の女性の踊り手が参加する那覇三大祭りのひとつだ(ちなみに、三大祭りの後のふたつは、那覇ハーリーと那覇大綱挽)。
 拝み回るのは辻の一帯の中で5カ所。火ぬ神の拝所で奉納演舞も行われる。女性たちが「ユイユイユイ」の掛け声で舞う時につけている首から上だけの木製の馬は、かつて離れ離れになった肉親を高い所からからひと目でも見ようと馬に乗った姿を思わせる名残りである。

 三年前、ようやくこのジュリ馬行列を見る機会がめぐってきた。辻一帯を拝み歩く姿をたくさんの報道関係者や見物客に混ざり、しっかりと見届けることができたのだ。
 旧暦1月20日の午後2時。『料亭那覇』近くの辻新思会からドラの音が鳴り響くと、白装束を身にまとった女性二人を先頭にして、重箱を持った黒子など一行が辻の街中を歩き始めた。ドラにはかつての地名が書かれてあった。辻の村の北を上村渠、南を前村渠といった。
 一行はどこまで歩くのだろうと思ってついて行くと、すじぐゎー(筋道)に入っていった。さらに見ているとこじんまりした一軒の家の中にぞろぞろと上がっていくではないか。これは遠慮していたら中の様子がわからないと思い、すすめられるがままにブーツを脱いで上がらせてもらった。
 6畳間ぐらいであろうか。こんなにたくさんの人が詰めかけたら床が抜けるのではないかと余計な心配をしたくなるくらいの佇まいの中に、壁一面の仏壇があった。掛かっている額には「花の代」と「海蔵院」の文字。私にはその言葉の意味がわからなかった。普通の民家なのにどうしてこのようなものがあるのだろう。
 屋敷の主は幸さんというおばぁだった。ここでの神事が終わると、関係者のおじぃが「今年もご協力をありがとうございました」とおばぁに深々と頭を下げた。その瞬間、幸さんの目から涙がこぼれた。
 その後の会話はほとんど方言になってしまったので詳しい事情はわからなかったが、今年もお役目を果たせてよかったといった雰囲気に感じられた。
 私は一行が次の場所に向かうのを見送ってから幸さんに話しかけた。幸さんは背筋のピンと伸びたそしてきりっとした中にふんわりとした優しさが伝わる、そんな印象のおばぁだった。彼女に教えてもらったのはこんな話だった。
 この場所は外見は民家のようだが(実際、幸さんは暮らしている)、かつてはお寺で「海蔵院」という名前であった。「カガンヌウテラ」とも呼ばれる。名前の由来は仏壇に置かれている鏡で、鏡のある寺(カガミのテラ)というところからカガンヌウテラになったという。なんと350年も前に造られたとかで、波上宮よりも古いとか。
 かつてこの海蔵院に手を合わせてから仕事に出かけるジュリたちもいたそうである。額にあった「花の代」は「はなので」と読む。いわゆるお花代のことである。仏壇には辻を代表する4人のジュリの名前が刻まれていた。
「でも……」と、幸さんは悲しそうな顔をして言った。
「戦火で辻は焼けてしまったでしょ。だから、実はここにもお墓にも彼女たちの骨はないんです」
 庭先にはジュリのことを書いた碑が置かれている。だが、それも戦火で焼けて文字は何も読めない。
 どうしてこの場所を幸さんが守っているのか、緑を訊ねた。
 そもそも幸さんのご主人の父方の伯母さんがこの寺に嫁入りしたのだが、その後、守る人がいなくなってしまった。戦火であたり一面焼け野原になった跡を義理の母と一緒に見に来た時、この寺があったあたりに勝手に杭を打ち測量している人たちの姿を見た。
「あんたらに住める場所じゃない」
 ジュリたちの思いの残るこの場所は守らなくてはならない。神事を大事にしてきた幸さんはよけいにその思いを強めた。ご主人とは一度離れたそうだが、この場所から離れることはできないと、長男が8歳の時に戻ってきたという。
 辻に所縁のあった人が年に幾人かここを訪ねてきて、拝みをしてしばらくするとすっきりしたと帰っていく。そんな人たちのためにも、帰る場所は失くしてはならない。幸ざんはここを守ることが自分の役目だと思っているという。
 涙の理由を言葉にして語ることはなかったが、幸さんが守ってきたものは何にも代えがたい。ジュリたちの思い、沖縄の歴史、心の拠り所……。
 毎年、辻の二十日正月を滞りなく終えることができて一番安堵しているのは、幸さんなのかもしれない。いつの目か、寺がきちんと復興することを切に願う。
・「原日本・沖縄の民俗と芸能史」(三隅治雄著、沖縄タイムス社刊)から



 わたしが、初めて沖縄の土を踏んだのは昭和33年(1958)7月であった。折口信夫先生の導きで、沖縄の民俗と芸能の伝承を学んだわたしは、まだ見ぬ南海の島々への憧憬を深めながら、昭和32年に奄美の島々を訪ね、翌年、琉球政府文化財保護委員会からの招聘状を得て、念願を果たした。
 当時、沖縄では、俗にB円とよばれた軍票が通貨として使われ、それが翌年からドルに替わるという変動期であった。奇跡の1マイルとよばれた国際通りの商店街は、貴金属・衣類・飲料・菓子・煙草・雑貨等々外国製品であふれ、北部へ向かう車窓からは、横文字の看板と、鉄条網に囲まれた軍用地、丘上に広がる米軍兵舎が次々に望まれた。夜間訪ねたコザの街のネオンサインが、ど派手にぎらぎら輝いて、まさにリトル・アメリカの感じであった。
 これが基地化した沖縄の変質の姿かと慨嘆したが、しかし、それはとんだ早とちりであった。基地化くらいで、本(もと)の文化を失くすほど弱(やわ)な沖縄でないことを、翌日からの旅で知った。
 初めに訪ねた北部国頭の村々では、何と、婦人たちが、芭蕉布を丹念に紡ぎ、織り、また、古謡をうたい、あるいは絣の着流しに白鉢巻で、エイサーを踊っているではないか。そして、大宜味村の塩屋では、折からウンジャミ(ウンガミとも)の祭で、白衣を着た神女たちがアシャギに集まり、静かに神詞を唱え、神酒を人々に授け、弓を手にしての歌舞(あそび)に興じていた。
 案内してくれた故老は、それらはみな、戦前と少しも変わらぬ情景だといった。また、ウンジャミで、神女の前に大の男がかしこまって、盃を頂戴しているのは、神女を神と仰いで、そのセジ(霊魂)をいただく儀礼だと説明した。
 沖縄の巫女信仰については、かねて折口先生から詳しくまなび、また、それが南島の民間信仰の基層であることを沖縄研究の先達伊波普猷氏の諸論文などからも知識していたが、その伝承がいまも消えず、生き生きと行われていることに、深く感銘した。しかも、その後、歩いた本部地方や南部の知念・玉城の村々、さらに、久高島や遠く八重山の島々でも、戦前からの祭事と芸能が、生活の中にゆるぎなく溶け込んで、忠実に伝承されているのを見聞した。
 表にはアメリカンカラーに染まったかと見えながら、心身は、泰然と沖縄人を主張している。そのことを、那覇にもどってからもつよく感じた。街を歩くと、琉球舞踊や箏・三線の研究所・教授所の看板をかかげた家をあちこちで見かけた。聞けば、戦前にはこれほどの風景は見られなかったが、戦後、何もかも失くした廃墟の中から、おれたちには歌があるぞ、踊りがあるぞと立ち上がって、こうなったという。
 若者たちが、いま、われもわれもと踊りや歌・三線に打ち込んでいるという。米軍に占領されても、負けてたまるか、「ウチナーはウチナーさー」と、かえって燃えて、カレンダーは旧暦を守り、火の神を拝み、先祖供養を絶やさぬ…といった先祖から受け継いだ生活文化を身体に括りつけて、アメリカ世の侵入に立ち向かっている。
 凄いな、と思った。われわれ東京あたりの人間は、思い返すと、敗戦のあと、すぐに、旧文化への不信に陥って、氏神の祭礼も、邦楽も、郷土芸能も放り出し、ダンスだジャズだと昨日までの敵国文化に飛びついた。が、片や、米軍政府の統治下に組み込まれたはずの沖縄人が、逆に旧文化にどっしり腰を据えて、それをテコに立ち直ろうとしている。
 何ゆえ、かくも沖縄人は、郷土の旧文化に執着するのか? また、何ゆえ、かくも遠い苦からの文化が沖縄人たちの心を燃え立たせるのか? その因をたずねたいと思った。
 以来、わたしは、沖縄の民俗と芸能の様態とその足跡を、そして、それを伝承する沖縄人の心の働きを知りたくて、沖縄の島々の旅を繰り返した。
☆沖縄タイムス 「沖縄・人ばなし」(2012年9月2日掲載)から。

 「ヒコ・・・。貧乏の哀れはなんとか切り抜けられたが、病の哀れはどうにもならないなぁ・・・」
 彼と交わした最後の会話。沖縄口で切れ切れに語った。沖縄市内の病院のベッドに横たわってのことだ。内臓がすっかりガンに侵されていた。それから10日ほどして彼は逝った。
 彼、嘉手苅林昌。昭和、平成を三線一丁で駆け抜けた風狂の歌者である。
 「沖縄の島うたは、単に声を発するだけのものではない。語りかけなのだ。歌い込まれた言葉が聞く人の心に届いてはじめて“うた”になる」。
 このことを信条に歌い続けた人物。

 大正9(1920)7月4日。沖縄市が越来村だったころ、いまの米軍嘉手納飛行場の東端にあった仲原に生まれた。
 「生りジマがそうなら、軍用地料も大枚入りますネ」
 そう持ちかけると、
 「それならいいが、ウチは代々貧農でネ。11、2歳のころから村の富農に頼み込んで農耕させてもらったり、アカラー牛小(乳離れした子)を預かって成牛にしては、手間賃を得て家計を助けていた。歌は、歌好きだったアンマー(母親)のそれをフチュクル(ふところ)にいたころから聞き覚えた。三線は、近くにいたひとつ年上の小浜守栄兄(歌者。故人)に手解きを受けた。学校? 尋常小学校3年までは行った。4年生に上がるというとき、アンマーが言ったんだ。『ジルー(童名。愛称)、お前は学力優秀につき、勉強は3年まででよしと、校長先生が言っていた』。アンマーの言葉に偽りはあるまいと、素直に聞き入れて自発的に卒業した。以来、三線片手の山学校さ。独学だね」
 彼の話はさらにづづく。
 「キミたちが出た学校は六三三制。大学も4年生で都合16年だ。ワシが通った山学校はサンパチルク(八八八六の琉歌体)の30年制だから、学歴はキミよりもワシが上だッ」
 ぽつぽつと、しかも中頭訛りの沖縄口で話すのだが、話題の組み立てが絶妙この上もなく、相手を飽かせない。
 『沖縄モンのくせに“嘉手苅林昌”なぞと、読みにくい名前を名乗るなッ』
 甲種合格で兵役にはついたものの、南方戦線行く先々で『名前がむつかしい』と、上官に精神棒で殴られた。彼は予知した。『この戦争は日本の負けだッ! 敵国人ではなく、味方の部下を殴るようでは戦には勝てない』。
 その通りになった。

 復員後は、これという定職には就かず、小金の入る仕事は何でもした。そのほうが三線三昧で暮らせる自由があった。おかげで芝居の地謡、ラジオ出演、蓄音器盤、レコード。そしてCD、DVD。CM、テレビ、映画に出るようになり、歌者嘉手苅林昌の名は定着。さらに本土各地でのライブをこなすにいたって不動となる。日本復帰後の本土の週刊誌なぞは、彼を『沖縄・島うたのカリスマ』と紹介した。
 「カリスマって何だ?」
 「あなたは、沖縄の歌の神様だそうです」と説明すると、
 「新興宗教じゃあるまいし、生きていて“神様”にされてたまるかッ」ときた。
 名人上手には、こうした逸話がついてまわる。島うたに心魅かされる者が4、5人揃うと、いつの間にか嘉手苅ばなしになり、それが延々と続く。彼の歌唱表現の影響を受けた現役の歌者は数知れず。皆『嘉手苅林昌のことなら、自分が一番知っている』と公言してはばからないから、彼の奇行、名言、謎言は2、3冊の本になる。が、すべてが“沖縄口の妙”で成されたもので、共通語で記述するのはむつかしい。

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 歌三線は、すでに骨肉の一部であった。三線を手にしない合間には、酒を愛し煙草を手放さず、こよなくパチンコに親しむ日々だった。
 ある日「ワシは煙草をやめるッ」と、突然の宣言をした。理由を問えば「吸いすぎると胃の腑がおかしくなる」と言う。それでいて酒は盛んに飲んでいる。思えば、そのころから胃や肺に違和感があったのだろう。事実、胃の半分を切り取る手術を受けた。それでいてポケットには百円ライターを携帯していて、逢う愛煙者からの“もらい煙草”を欠かさない。
 「ワシの禁煙は、買ってまでは吸わないということだ」
 理屈のつけ方も、あくまで嘉手苅流。私なぞも世間に恥じないヘビースモーカー。彼にも喜んで“もらい煙草”を提供していたものだが、彼が席を立ったあと、私の煙草が箱ごと彼のポケットに納まったことに気付いたこと再三。つまり、都合のいい“お持ち帰り”だったわけだ。それにも嫌気ひとつ感じなかったのは、彼の人徳?に惚れ、毒されていたのかも知れない。
 四季折々に吹く風のごとく、ごく自然体に吹き抜けて逝った嘉手苅林昌が、ある意味で羨ましいのは何故だろう・・・。

 酒を飲み合った画家・陶芸家の故・與那覇朝大は「彼から三線を取り上げたら、ただのオヤジ以下」と、親愛の情をもって評し、また、彼の最大の理解者、故・照屋林助は「友人知人にはしたいが、兄弟にはなりたくない」と言い切った。
 2012年10月9日。十三年忌を迎える嘉手苅林昌。これで名実とともに“カリスマ”になり、あの世で得意の遊び歌を歌っているにちがいない。
2012.11.13 スクが来た!


☆「透きとおった魚 沖縄南帰行」 大竹昭子著から

 沖縄本島の備瀬湾を見下ろす小高い丘の上。木陰のテーブルに座って男たちはさっきからずっと海を見ていた。テーブルの上には双眼鏡がひとつ。見つけたらすぐに出られるように浜にはサバニ(沖縄の釣り舟)が用意してある。連中は一体どこにいってしまったのか……。
 スクは謎の魚である。産卵期になると親魚のアイゴは群れをなしてリーフを出てゆく。そして旧暦6月1日に近い大潮の日に生まれたばかりのスクがもどってくるのだ。そのときスクの群れで海の色が変わるという。どうしてこの日に大挙して帰ってくるのか、理由はだれにもわからない。
 スクがリーフに寄ってくる日、男たちは朝からこうして見晴らしのいい場所で魚の群れを探す。そして魚影が見えるやいなやサバニに乗って海に飛びだす。食事中でも箸を投げてすっ飛んでいくほどだ。スクがリーフに入ると藻を食べて味が苦くなるから、その前に捕獲しなければならない。
 と突然、ざわめきのようなものが上がった。いくぞ! と声がする。席を離れていたわたしはあわてふためいた。男たちが飛ぶように浜に下りていく。ほんとに急な話である。坂をころがるようにしてその後を追った。
 さっきまで木陰にのんびりくつろいでいた男たちは舟の上では別人のようだった。荒々しいウミンチュ(漁師)に変貌している。わたしは揺れる舳先でおろおろするばかりだ。魚群に追い付くと男たちは網をつかんで海に飛び込む。そして群れを追い込むやいなや、一気に引きあげる。
 サバニの中はぴちぴち跳ねるスクで埋まった。小さな透きとおったからだに筆で一刷きしたような銀色の線。うっとりと眺めるほど美しい。
 サバニは群れを追ってなおも進んだ。うずうずしてついにわたしも飛び込み、水にもぐって網の後ろで待った。するとやってきたのである。大群がまっしぐらに突進してきたのだ。オオッ、ウォー! 興奮して自分でもびっくりするような大声を上げてしまった。
 年一度のスク漁は、プロばかりではなく、希望すればだれでもにわかウミンチュになれる絶好のチャンスである。勤めを休む人もいれば、ポケットベルが鳴って仕事場からすっ飛んでくる人もいる。2、3日休暇をとってわざわざ里帰りする人すらいるのだ。それほど男たちを夢中にさせる魅力が、スク漁にはある。
 収穫した魚は竜宮の神様に供えてから漁に出た人たちで分配する。ベテランであろうと初心者であろうと差別はない。海で一日を過ごした者同士が等しく海の恵みを分かちあう心やさしい習慣である。
 夕暮れとともに木陰のテーブルで酒盛りがはじまった。スクといえば公設市場などで売っている塩漬けのスクガラスが有名だが、もっとうまいのは刺身だ、とみんなは言う。魚を酢でしめたものを沖縄では刺身と呼ぶ。
 水洗いしたスクに酢をかけてかきまぜる。こうすると背びれにある毒が中和されるそうだ。それから唐辛子を入れ、すだちに似たシークヮーサーをきゅっと絞る。こりっとした歯ざわり。潮の香り。口の中に沖縄の夏が広がる。

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 首里金城町の石畳道をくだると欄干にシーサーをのせた金城橋が見えてきます。この橋からの急なのぼり坂が識名坂で、方言では「シチナンダビラ」とよばれています。
 かつての識名坂は、首里からの古風な石畳道がつづき、夏には松並木が心地よい風を運んでいました。
 むかし、坂の上の識名村に仲のよい夫婦が住んでいました。嫁は村いちばんの美人ではたらきもの。夫の畑しごとを手伝いながらも豆腐をつくり、首里の市場で売り歩いていました。
 さて、金城橋の近くには、この美しい嫁に横恋慕する男が住んでいました。男はどうしようもない放蕩息子で、酒びたりの毎日を送っていました。
 ある日、豆腐が売れのこり、帰りがおそくなった夕暮れどきのことでした。識名坂で嫁のぞうりの鼻緒がぷっつり切れてしまいました。
「ああ、どうしよう」
 嫁がぞうりを手にしてこまっていると、そこへ放蕩息子がやってきました。
「さぞおこまりでしょう」
 男は酒のにおいをプンプンさせながら、ぞうりの鼻緒を直してあげました。
「ご親切にありがとうございます」
 嫁は腰をかがめて礼をいい、家路を急ぎました。
 ところが、すぐに男が追いかけてきて嫁をよびとめました。
 男は、今日こそは声をかけようと待ちぶせしていたのです。
「実は、前からあなたとお話しができればと思い……」
 嫁は男のことばにおどろき、
「わたしには夫がおります」
 といって、男の話をさえぎりました。



 あたりは暗くなり、いつのまにか人影が消えていました。嫁は急にこわくなり、豆腐の入ったタライを小脇にかかえて小走りにかけ出しました。
 そのようすにカッとなった男は、すぐに嫁に追いつくと、松の木の後ろに引きずりこんで手込めにしたのでした。ことを終えると、男はなにもいわずにその場を立ち去りました。
 売れのこった豆腐がくだけ散っていました。嫁は泣きながら乱れた着物を直し、しばらくはぼんやりとたたずんでいました。が、そのうち坂下へと歩き出し、涙にぬれた顔で金城橋から身を投げたのでした。
 なにも知らない夫は、いつまでたっても嫁が帰ってこないので、松明を灯して識名坂までむかえに行きました。金城橋までやってきた夫は、そろえて置いてある嫁のぞうりを見つけ不安な気持ちにおそわれました。
「ああ、どうしてこんなことに」
 夫は、川に浮かぶ嫁のすがたに落胆し、自分も松の木で首をつって死んでしまいました。
 それからというもの、夜になると、識名坂と金城橋の両方から青白い遺念火が出るようになりました。二つの通念火は、ゆらゆらと近づきひとつになったり離れたりしながら、坂の途中でいっしょになって消えていくのでした。
 そんなある晩のこと、酒に酔ったあの男が、夜風に吹かれながら気持ちよさそうに金城橋をわたっていました。
 すると、とつぜん遺念火があらわれ、嫁の幽霊が橋のまん中にぼうっと浮かびあがりました。おどろいた男は欄干によりかかろうとしてよろけ、まっさかさまに川に落ちておぼれ死んでしまいました。
「おなじ場所で三人も命を落とすとは……⊥
 立てつづけに起きた災難に、ふしぎなこともあるものだといって世間の人々は首をかしげたそうです。
 識名坂の遺念火は、戦前までよく見られたといいます。古老の話によると、この青い火の玉は死者の霊魂であり、非業の死をとげた男女が一組の火となって宙をただようのだそうです。

(文・絵とも「おきなわの怪談」(沖縄文化社刊)から引用させていただきました。)


 スタンフォード大学でのシンポジウムで忘れられない涙がある。
 私はそこで在沖米軍基地の県外移設について問題提起し、聴衆に賛成か反対かを聞いた。最も印象的で意義深い返答が、被差別部落民として部落差別問題に取り組む岸本眞奈美さんからのものだった。
 岸本さんは、お嬢さんが修学旅行で沖縄を訪れた際の感想から語り始めた。
 「観光バスの中から軍事基地と隣り合わせの沖縄の様子を見ていると、同級生たちが、『ひどいところだね。よくこんなところで生きていけるね。(沖縄の人は)どうして、引っ越さないのだろう』と言っているのが聞こえ、傷ついた。部落の子として、『どうして、部落から引っ越して、出身を隠して生きていかないのだろう』といわれているようにも聞こえ、二重に傷ついた。部落にとって沖縄は人ごとではない。でも、『沖縄』(=基地のこと?-筆者)が自分の側に来るのは……いやだ。怖い。娘に正直にそう話すことから始めたい」
 そして岸本さんは声をつまらせ、泣いた。
 私はその涙の意味をこんなふうに感じた。沖縄の状況に関心を持ち、県外移設の論理も背景も気持ちもよく理解できる。しかし、自分たち、特に自分の子どもが被害にあうことは耐えられない。だから、基地が側に来るのはいやだ。しかし、率直にそのように口にすれば、それはまさに沖縄に基地を押しつける論理であり、そしてそれを自分自身が行使、実践していることに直面させられる。そのショック。一方、そういう自分の声が、
 「部落が側に来るのはいや」
と自分に向ける差別者の声に聞こえ、さらに傷つく。
 しかし、私も同時に傷ついたのだ。県外移設を拒否されたのだし、
 「『沖縄』が側に来るのはいや」
といわれたのだから。さらに、私の前で泣かれたため、私の涙と痛みは凍りつく。
 私はふと、傷を抱える私たち二人の間だけでいやなものを押しつけ合い、それによって、さらにそれぞれの苦しみを孤立したまま深めているような、変な気分になっていることに気がついた。そして、ああ、これが少数者同士が対立させられる構図なのだと実感した。
 もしかしたら、岸本さんはそれを承知の上で、あえて、そのような少数派の姿をさらし、自らの思いを正直に突きつめて語ることで、会場の人々、特に多数派に属する人々に、
 「あなたたちは、どれほど真摯に誠実にこの間題提起に答えているか、この少数派同士の矛盾、分断対立の責任をどう取るつもりなのか」
と問うていたのではないだろうか。
 シンポジウムには、在日朝鮮人三世で人材育成コンサルタントの辛淑玉(しんすご)さんも来ていた。辛さんは一貫して私を支えてくれた。例えば講演後、日系白人でスタンフォード大学のスティーブン・重松教授が私に、
 「あなたの英語力の問題なのかもしれないが、あなたは日本人と沖縄人とを分けているように聞こえる。沖縄人は日本人に含まれるのではないか」
といったとき、私が答える前にすっくと立ち上がり叫んだ。
 「その質問をウシにするのは間違っている。それは日本人にするべきだ。日本人が『日本人は』という時、そこに沖縄とアイヌは入っているのか。ウシはそのことをいっているのだ」
 また、辛さんはシンポジウムが終わると私の肩をがしっとつかみいった。
 「おまえって特攻隊みたいなヤツだな。捨て身で勝負するんだな」
 さらにその後の出来事のなかで私が失敗したりすると、
 「まだまだ修行が足りないぞ」
と私にけんかの作法を手取り足取り教えてくれる。こんな辛さんでも、県外移設に賛成だとは明言しない。しかし、反対だとも決していわない。
 つまり、県外移設となると、移設先は、日本の少数派、被差別部落や在日朝鮮人が多く住む地域になるのではないか、自分たちが次にさらに犠牲にされるのではないか、という恐怖を少数派は持つのだ。多数派はそれを被害妄想と呼ぶのだろうか。そうであるなら、それが妄想だと証明してほしい。つまり、率先して多数派のところに移設してほしい。
 とてもよかったのは、少数派としての互いのこのような懸念、恐怖、複雑な感情、気持ち、想い、傷を、隠さず、深く長く話し合う機会をその後持てたことだ。そこで確認したのは、基地を押しつけるのは他ならぬ多数派日本人であること。私たち少数派を分断しないように、基地問題も含めて、多数派日本人がちゃんと責任をとるように問題提起を続けること。今後とも交流を続け、互いのさまざまな感情、想い、考えを忌憚なく語り合い、それぞれの経験や知恵から学び合う必要性と重要性である。

(「ウシがゆく」(沖縄タイムス社刊)から)
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☆「島うたの周辺 ふるさとばんざい」(上原直彦著 沖縄公論社刊)から

 嘉手苅林昌、大正9年旧暦7月4日(新旧対照暦、当間諭編によれば大正9年新暦は8月17日ひつじの日)越来村中原生れ。しまうたをよくする人たちから“やっち-小”と親しまれ、若い人たちには“おとう”としたわれる存在。
 政治を知らず、経済に関わらず、文化などまったく意識せずにひたすら三線と妻と子とふるさとと、そして、ちょっぴりパチンコを愛している自由人。
 ボクはこの人の中に、リトル東京化した沖縄の中で、知らず知らずのうちに平均化されて個性を失っていく己れを発見することがある。世はあげて情報時代。エライ政治屋(「家」ではない。いま政治家が居るかどうか……余談)のメカケの話から、芸能人のすてきなスキャンダルにいたるまで、知識として知っておかなければ取り残されそうな社会生活の中で「やっちー小」だけは仙人の如く生きてきた。それは「ものぐさ」からの発想ではなく、これまで彼が関わってきた社会、軍隊などがそうさせたのである。
 嘉手苅独白。
 貧しい農家だったからねウチは。14オから働きに出されたヨ。学校? ウン、尋常学校3年で卒業した。もっと上の学年もあるにはあったが、先生がお前は学力優秀だから3年まででいい、とウチのおやじにいっていたらしい。オヤジがそういって俺を働きに出したんだからバッペーやねーん(マチガイナイ!)。
 マチヤ(商店)の走り使いで月給3円50銭、それから篤農家の年期奉公、その時には日給40銭だったが、その労働のきついこと! ジントウ血糞マルカやたんやー……。
 アンカンするうち、俺も16才になったもんだから、オヤジが売り買いしていた牛の代金95円を盗んで大阪へにげたんだ。冬だったなあ…。なのに俺ときたらバサー小(芭蕉布)を着けて地下タビだ! 道もまるで知らないから神戸から大阪まで線路沿いに歩いて行ったが、淋しいというか悲しいというか……タケーンビケーのー涙小(なだぐゎ)んすすてィよー(二度程涙をふいた)。
 地理まるで不案内だから話に開いたオバサンの嫁入り先が判るはずもない。オオサカんでィ云しぇー、どぅく広さぬならんさー(大阪は広すぎてダメだね)。
 チャースガヤー(どうしよう)するうち、ある製材所に「人夫採用」と書いてあったもんだから、ひとまずそこに勤めることにしたんだ。仕事は勿論力ワジャ(業)だから、きついにはきついが、しかし、沖縄での年期奉公に比べたら、フィーフィー小(口笛)吹ちょーてィないたんやー。
 そこでよく働いたから貯金も5百円程たまり、これだけあれば牛小代を盗んだ罪も、おやじは許してくれるのではないかと思っているところへ、「ヘイタイケンサはオキナワでやれ」とオヤジから電報が来たんだ、飛んで帰ったヨ、ン? 牛小代事件はどうなったか、だって盗んだのは95円、持って帰ったのは5百円だもの、オヤジの奴、叱るどころか、「わったージルー(次良-彼の童名)や5百円モーキティチェーン(息子が5百円儲けてきた)」と親戚中に自慢したくらいだよ。おかげでシランフーナー(知らんふり)してすまされる借金まで払わなければならなくなるし……、まあ、人手に渡っていた畑を取戻しただけが、俺の唯一の親孝行だった……。
 その両親もいまはいない。
  親になてィ親ぬ 恩知ゆんてィやい 昔ゆしぐとぅや なまどう知ゆる
  (子を持ってはじめて知る親の恩……という諺、実感としていまぞ知る)
 イッターン、ウリカーや、ユー考えーランアイネー(お前たちもその辺、よく考えなければならないよ)と諭すのは、嘉手苅林昌の「やさしさ」である。
 「やさしさ」といえば、彼のうたを一貫して流れるのは、この「やさしさ」であるといえよう。人の悪口を決して言わないこの人、約束を決して忘れず、破らず、そのことを人間が生きていく上の最大の条理とする彼のうたは、「やきしさ」に支えられて、時にその情念はメラメラと燃える「怨歌」にかわるのである。
 沖縄が復帰する3、4カ月前であった。一緒に三絃をつまびいていると、「下千鳥」にのせてこんなうたを歌った。
  下ぬ居てィ上ん 成り立ちゅるたみし 下ぬねん上ぬ ぬ役立ちゅが
  (下人民があってはじめて成り立つお上、下人民を無視したお上にどれ程の意味あいがあろうか)
  あたらわが沖縄 品物ぬたとぅい 取たい取らったい 上にまかち
  (あゝわが生り島オキナワ、まるで売り物買い物の品物のようだ、人民の意志は全く反映されず、アメリカに売り渡したり、買い戻したり、お上まかせだ)
  思みば身ぬ毛だち 戦世ぬ哀り またんく戻ち あらばちゃすが
  (復帰……それもよし、しかしニッポンのイメージは戦争の悲惨さである。ニッポンに帰って、またあの戦争にまきこまれはしまいか、身の毛がよだち不安がよぎる)
  ダーグに丸みらり 大舟ぬ心地 戦世ぬあわり 肝にかかてィ
  (復帰すれば幸せになる。とダンゴのように丸められて、とにもかくにも大舟に乗った心地はするが、何故か! なぜかあの戦争時のあれこれが心にかかる……何故だろう)
 駆使された言葉は決して上品なものではないが、日常語で移りゆく“時”をうたっているだけに、異様なまでの迫力で聞く者を圧倒し、彼のもつ「怨念」いわゆる「怨み節」に慄然としない訳にはいかなかった。


☆「辻の華―くるわのおんなたち」(上原栄子著、時事通信社刊)から

 わたくしを育ててくれた辻の抱親(あんまー)様は、随分若い頃から一人の旦那を持ち、詰尾類(チミジュリ)のまま30年間飽きもせず、飽きられもせずに暮らしておりました。30年も日陰の女で暮らしてきた抱親様は、旦那様と一緒にいるというだけで素朴に歓びを感じていたようです。
 暗くて重い自己嫌悪の感情を、辻の姐であれば誰しもが持っているものでしょうが、抱親様は一度もそんな素振りを見せたことがありません。旦那様が家に見えたときは、我が物と思うことになぐさめを感じていたのでしょうか。金を持ってこようがこまいが、お金よりも旦那の心が有り難いと思っておられたようです。
 旦那様が見えたらのどかに楽しく過ごさせるように気遣い、おいしい料理、うまい酒でご自身の存在を示されていたように思われます。

 ところが、殿方の浮き沈みは世の習いで、旦那様が事業に失敗されたときなど、抱親様は、営々と築きあげた自分の財産を身ぐるみ脱いで差し出し、あげくの果てに、わたくしの頼母子講まで貢いだものでした。わたくしも小さいときから旦那様のお陰をこうむってきましたから、報恩のつもりで何も言わず出しました。これもまた抱親様に教え込まれたことでした。
 心労と浮世の義理にさいなまれた旦那様はとうとう病に倒れてしまいました。最後の最後まで抱親様は、旦那様の看病に付きっきりでした。
 危篤になった旦那様を抱親様とわたくしは、車に乗せて本宅に連れて行きました。奥方様と抱親様の両方から、旦那様は死に水を取られて、この世を終えました。
 わたくしは、奥方様と抱親様の間で死んだ旦那様を横目で見ながら、台所の方でお湯を沸かしたり、辺りを片付けておりました。夜の明けるのを待つその間に色々と奥方様と辻の姐のことを考えさせられたものです。

 抱親様の、死んだ旦那様の家族に対する報恩は、戦後までも続いたものでした。死ぬか生きるかの戦争も終わったその後で、人の思いも考えも変わったように思われる世の中になっていましたが、抱親様と奥方様が手を取り合い、肩を抱き、涙を流して、互いの健在を喜び合っていたそうです。敵である者同士、一人の男を愛して苦労してきた女二人は、一方は夫につかえた亡夫の女をいつくしみ、一方は死んだ旦那とはいえ、大恩ある奥方様と思えば、友情以上のなつかしさがあり、一人の男を間に立てて、互いに親類にもまさるように感じていたように思えます。
 在りし日の旦那様の話をしながら、二人は感きわまって泣き合ってもいたそうです。それを人づてに聞いたわたくしは、辻の姐として生き抜いた若き日の抱親様の姿を思い浮かべました。

 とにかく馴れ初めて30年もの旦那様の死後、抱親様には大変な失意と絶望が襲ったに違いありませんが、しばらくして女に男がおらねば我が世も終わりと、心の糧に他に殿方を見つけて、また詰尾類になりました。
 抱親様は生涯の最後になった殿方にも習慣がそうさせるのか、白粉(おしろい)に身をやつしながらも一所懸命尽くしました。
 抱親様はその家族とも近しく行き来して、91歳の長寿で世を終えました。そのときその殿方の長男も葬列の友人代表となり、奥方様や家族の方々も参列されました。「義理、恥失えば人間ではない」というのが抱親様の信条でしたが、本当に辻の詰尾類とは正体のつかみにくいものだったのです。
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★音楽とひと「嘉手苅林昌」(「芭蕉布」(ボーダーインク刊)から)

普久原恒勇 これはもう話が多すぎて話す気にもならない人ですね。とんでもない男です。理不尽だし、ちゃらんぽらんといえばちゃらんぽらんだし、歌が一番しっかりしているといえばそれもあっているし。
 まあ波乱万丈な男です。長らく付き合いましたよ、この人とは。凄いですよ嘉手苅は。あれは特別でしょうねえ。
 時おり声をかけられまして、伴奏してくれというのが何度かありました。そのときはいやだったけれど、今にして思えばとてもいい思い出になりましたね。恒勇が弾いてくれればやるよ、なんて言ってくれたことも懐かしい、ありがたい思い出です。
 レコーディングも、私と二人でやったものもありますよ。あの人は三味線が非常に荒いわけです。少々合わせにくい人ではある。早いテンポのものでは、こっちがぎゅっと引き立ててあげると大変喜んでおりました。基本的には彼の三線は私の演奏とはちょっと違うんですが、彼を乗せることはできると思っていましたね。
 平成の嘉手苅として磯田(健一郎、当書の編者)がプロデュースしたものも共演してはいますけれども(CD『The LAST SESSION』1996年)、充分三線が活かされてはいませんし……。あのころはちょっと枯れてしまっていて、耳も聞こえなくなっていた。右の耳が全く聞こえないと言ってましたよ。ですから調弦もできない。録るべきだったかどうか。
 うちの事務所で録った『七月エイサー』、あるいは『嘉手苅林昌特集』というCDがありますが、これらにも私と共演しているトラックがあります。
 私はあまり自分の名前をクレジットしないんです。自分の名前をいちいち書いたら、マルフクのものに全部名前が入ることになってしまいますから、何だかいやらしい気がして入れないようにしたわけです。聴けばこれは私が弾いているということはすぐわかりますが。今思えば名前を入れておけばよかったかなと少し後悔はしていますね。
 録音ということではこんな思い出もあります。コロムビアで録った時、オペレーターが「録音を録る時に非常に怖いのは、ひばりと嘉手苅、この二人だ」と言っていた。テレコを2台同時に回すんだそうです。彼らを録るのは非常に怖い、テイク2を録ろうなどと言っても聞かない。ミスがあると大変だからこの二人の時は2台同時に回してますと言っていました。この話には非常に感動しましたね。

―― ライブといいますか、演奏会もお二人でおやりになっていたかと存じますが。
普久原 踊りを一緒に舞わせたことがありました。踊り手がいて私と嘉手苅がいて、ではと二人でイントロを弾いた。なに口説でしたか、一生懸命イントロは弾いたんだけれど歌詞が出てこない。私もわからない。ハイ嘉手苅さんどうぞと首で合図したんだけど、彼も出ないんです。舞踊家はこっちを見て早く歌を出せとせかすんだけれども、歌が出なかった。そのまま帰りましたよ、それは (笑)。そういう恐ろしい体験がありますね。
 そんな面白い経験もあるし、それから嘉手苅の独演会というのがありました。そのときに私は客席から呼び出されましたね。上原直彦だったかなあ、司会は。普久原がいるから呼べっていうことで呼び出されて、そのときも一緒に演奏しました。

―― プロデューサーとして、林昌さんのもっとも素晴らしいところ、レパートリーをお話ください。
普久原 嘉手苅の最たる魅力というのは、歌詞を、何を歌いだすかわからないというところです。ほとんど即興に近いような、素晴らしい歌詞が出てきますね。
 特に《ナークニー》とか、《ヒンスー尾類小》、《手間当》。これらは見事な歌唱です。私どものCDに残っておりますが、抜群のフィーリングですね。
 《ナークニー》などはどんな歌詞を歌ってもいい。録音の前に彼は鉛筆を持って紙に歌詞を書こうとしていたんですが、何を歌っていいかわからず結局書けなかったんです。十分ぐらい考えていたけれど、歌詞が出ない。やはり三線を弾いて歌わないと出てこない人なんですよ。
 実に不思議ですね、書かないほうが歌いやすいなんて。普通は忘れるからカンニングペーパーを置いて歌うものなんです。彼は逆。何もないほうが歌いやすい。
 さらに注目すべきなのは、彼の声の質。図太い声ですね。美声ではありません。どちらかといえば悪声のほうに入る、かさついたような、ぬけない声ですけれども。彼の豪快なファルセットと力強いフィーリング、群を抜いていますよ。
 こうした部分に私は惚れまして、これは絶対に残すべき人だと思ったんです。戦後の筆頭でしょう、嘉手苅という人は。ほかの人が持ってないものを持ってる人ですね。

―― マルフクの数ある名作CDの中でも『嘉手苅林昌特集』はぼくの愛聴盤のひとつで、他の方にもお勧めしています。
普久原 素晴らしいものですね。一番最初のLPと、CDならこれが代表作と考えていただいていいでしょう。CDになった音源の制作は30年ほど前、嘉手苅絶頂期のころですから、これを愛聴盤にすることは正解ですよ。ぜひ推薦してください。抜群の歌唱です。
 三味線の荒っぽさもいいですけれども、嘉手苅独特のもので。あの荒さというのは野蛮な弾き方でよくないともいえますが、歌の素晴らしさで充分にカバーしていますね。
 私自身、名盤だと思っています。

―― クレジットはありませんが、この『嘉手苅林昌特集』でも三線を弾かれたのですね?
普久原 聴きなおしてみましたが、私と林次君が交互に伴奏していました。まずトラック1番の《ナークニー》、4番の《白雲節》、6の《南洋小唄》、7の《ヨー加那よー》、10番《下千鳥》、11番《廃藩ぬさむれー》。この6曲は私が弾いております。



―― 林昌さんとの個人的なエピソードを差し支えない範囲でお話しくださいませんか。
普久原 大した思い出はありませんよ。よくうちへ来て酒を飲んでいたわけですが、私にできることはといえば、酒をあまり濃くせず、水を多めにして薄めることでした。彼は水を多く入れるとこれはまずいという感じで置いてしまう。それであまり進まない。濃くするとがんがん飲むんですが、薄めるとあまり飲まないという特徴がありました。それで私は薄める役。酔っ払うと歌もよくありませんし、くせも非常に多い人ですから。人をつかまえてどつくとか、面白いくせを持っていて、みんなから怖がられました。
 三線が好きでね、あれほど三線が好きな人はいません。料亭へ行っても三線を離さないんです。もうしょっちゅう歌っている。たまにはみんなで話しながら楽しもうじゃないかと言っても、それもしない。ひたすら歌っていて、飲みに行ってるのか三線弾きに行ってるのかわからないくらい。あれぐらいのレベルの人がひたすら歌い続けていたからこそ、素晴らしい歌を歌えたんでしょうね。
 料亭では女たちから非常に嫌われていましたよ。ちょっと三線を離して、お酒でもいかがですかと言われても歌っていた。嫌われるというところがいいねえ(笑)。嫌われるほど弾いた人でした。
 いみじくもね、私に言いましたよ。三線というものが世の中になかったら、おれは何をしていたんだろうねと。ほんとに、三線がなかったらあの人は何をしていたんでしょう。何もしていなかったかも知れませんねえ。
 酒に関してはとにかく飲みます。まず飲む。飲んだら飯は食わん。絡んできたやつと必ずけんかする。大変ですよ、止めるほうが。それで一人でほっつき歩くもんだから、悪いやつにとっつかまってぶん殴られて、傷の絶え間がなかった。コーラの瓶で頭割られて、3針4針縫ったという話ばかりでしたよ。
 傷だらけの人生でした。身も心も。素晴らしい人です。ああいう人は、ほかに二人と知らないですね。落語界でいえば古今亭志ん生ぐらい面白い人でしょう。
 それから嘉手苅さんは編み物が上手なんです。非常にうまい、名人級ですよ。小間物なども器用に作っていました。朝早くみんなまだ寝ているのに石川のフォーシスターズの家に行って、蛇の皮だとかをハサミで切って縫い合わせて財布を作ったこともあるし、わたしの事務所へ来て、誰もいないのに一人でコーヒー沸かして飲んで、自分の好きなものをあれこれと作ったりしていました。とにかく作るのが好きでしたね。
 奇妙な人です。面白かったですね。
 嘉手苅さんはゴムゾーリ、シマゾーリとも言いますが、これを履いていました。これがね、右は黄色のシマゾーリ、左は赤いシマゾーリ。必ずちぐはぐ。みな履いてるもんですから、よく履き違える。特に酒が入ってたら何履いているかわからない。左右逆だったり、色がちぐはぐだったり。それで、嘉手苅さんあなたのゾーリは右と左、色が違うよと言うと、「もう一人おんなじやつがいるからいい」と言ってました(笑)。間違ったやつがもう一人いると。その通りですね、もう一人色違いのものを履いてる人がいるわけだ。おれ一人じゃないよと言ってました。そういうしゃれた男でしたね。
 新たに「琉球関連名文」というカテゴリーを設けてみました。
 読んでいてコレハ!と思うものがあったときに、その一部を抜粋して掲載してみたいと思います。
 出典を明確にして、宣伝させていただきますので、お許しのほどヨロシクです。

 さて、その1回目は、「マルフクレコード復興」。「芭蕉布」(ボーダーインク刊)からです。
 


―― マルフクレコードの第二期始動前夜といいますか、帰沖後本格的にレコード制作を開始されるまでに協力者の方の動きなどもあったのではないかと想像します。
普久原恒勇  当時、沖縄で一番隆盛を極めていたのがマルタカレコードさん。マルフクレコードの得意先だったのですが勢力を広げていったんですね。マルタカさんは非常に繁盛していたのですが、そこで録音できないで落ちこぼれた人たちがいたわけです。その人たちが私の協力者です。
 マルタカさんは頑張ってらっしゃるから、われわれも頑張ろうじゃないかと名乗りを上げてくれたのが、喜納昌永、小浜守栄、嘉手苅林昌、兼村憲孝、多和田真正といった方々。主に喜納さんが中心になってやっていただきました。ギャラはなしでもいい、協力するからマルフクをぜひ盛り上げてくれと、喜納昌永さんがことのほか一生懸命私に協力してくださいました。金のない私が制作できたのも、こういう方々のおかげですね。
 それから放送関係には琉球放送に上原直彦がいたし、ラジオ沖縄には小那覇全人(現ラジオ沖縄「方言ニュース」キャスター。父親は小郡覇舞天)という課長が、極東放送には津覇実がいましたね。この人は民謡専門のパーソナリティで人気がありましたよ。
 当時はレコーディングスタジオといえば放送局しかありません。今日のようにみなそれぞれがホームレコーディングするような時代じゃないし。機材もものすごく高価な時代でしたから。放送局のスタジオは沖縄で3か所ありました。琉球放送、ラジオ沖縄、極東放送。この3か所で録りましたよ。機材はかなりいいものを入れていましたね。もちろんステレオなどという時代じゃありません。全てモノラルです。
 当時は放送局側も放送する音源が不足していまして、面白いことに「スタジオを無料で貸すから、その代わりこの音源を無料で放送させてくれ」と言われましたよ。こんなありがたい申し出はなかったですね。渡りに船というんですか。
 それで制作しまして、爆発的な売れ行きをした。ちょうどジュークボックスが普及していたころで、それに民謡が入りだしたわけですよ。歌謡曲やアメリカのカントリーミュージックが多かったんだけども、民謡が入りだしたもんだから、これで飛ぶように売れましたね。
 みなさんにも喜んでいただいたと思います。こちらはこちらで、放送局でしか録音はできないわけですし。ヒットした《ちぶみ》はラジオ沖縄で録りました。そのあとはほとんどラジオ沖縄でしょうか。ラジオ沖縄さんのスタジオは非常にいいスタジオでした。マイクロフォンは全てリボンマイク、RCA77DXだったかと思います。

―― 歌い手の方々とはすでにお知り合いだったのでしょうか。
普久原  1956年ごろですか、大阪時代に沖縄に帰って、デモ録音を録ったことがあるんです。沖縄に嘉手苅とか山内とか小浜とかいろいろな若者たちが居るから、ぜひこの人たちに会ってこいと朝喜に言われまして。
 それで小浜守栄、嘉手苅林昌、喜納昌永、あと山内昌徳といった方々にお会いし、マルフクレコードをよろしくお願いしますというあいさつも兼ねて、わたしがデモを録った。その当時の彼ら若手の歌がたまらなく魅力的でしたね。わたしが朝喜、京子のものしか歌のレコーディングを見てなかったというのもあるのかも知れませんが。
 このデモ録音は、朝喜の弟の朝康というのがおりまして、そのうちに皆さんお呼びして録りました。大阪からソニーが出した初めての携帯用オープンデッキを持ってきて、それでデモテープを作りましたよ。皆さん、朝喜の長男が来たということで非常に緊張しておられましたけれども。
 デモは録ったのですが、あとでマルタカさんと他社に録音できないという契約をされた方もあり、レコーディングできなかった。皆さん朝喜のところで録音できると喜んで頂いたのですが、マルタカさんが私が来たことを知って、「朝喜の長男が来ているそうだ、そら急げ」と、契約を交わしたみたいなんです。それで出せなくなった。
 デモテープ録っただけなのに、テープを消せとまで言われましたよ。ああ、凄いねえ。

―― 皆さん契約がおありになったのでしょうか。
普久原  ええと、山内さんと嘉手苅さんかな。マルタカさんと契約したのは。

―― でも、嘉手苅さんは第二期マルフクの最初期に録音されていますね? 契約は大丈夫だったのですか?
普久原  それはまあ、嘉手苅さんだから(爆笑)。あっちに入れたんだからこっちにも入れなきゃいかんだろうって。嘉手苅さんだから録音できたわけですねえ、ほんとに(笑)。
 先に読んだ堀晃著の「今夜も眠れないこの島で」(新日本教育図書)から、一文を引用します。
 なんか、とてもよく南島の雰囲気が出ていたものですから。

---以下、引用---

「いわんやダノゥをや」

 仕事もせずにぶらぶらしてる連中のことを、島人たちは「ダノゥ」と呼ぶ。なまけものという意味だ。その中でも最高(最低)の人間は「ダノゥキリ」。ダノゥたちが寄り集まる木かげは「ダノゥ木」 だ。

 ガジユマルの木かげで、おじさんがビールをのんでいる。
 どう見てもダノゥ集団だけれど、昼間はまじめな働きものたちだ。仕事を終えて日が暮れると、ダレが言うでもなくダノゥ木の下に集まってくる。一日の充実をかみしめんと、しばし「夕ぐれダノゥ」 に身をやつす。

 ある日、おじさんたちは巨大な雲形テーブルを作りあげた。
 ぶ厚い板を何枚も組み合わせた、ステージのような広さだ。数人が昼寝するベッドとしても使えそうだ。
 アトリエにしている廃校にそびえるアカギの大樹の下だ。

 ボランティアだと彼らはうそぶくけれど、ダノゥならではの仕わざだとぼくは思う。ボランティアには日常につながる社会的意義があって、大多数が感謝する。ダノゥの仕わざには社会的意義はない。唐突な非日常の出現に大多数がア然とする。なんとまぁヒマな男たちだ、あきれたねぇと言われる。

 しかし、ア然とすることは脳の活性化に良いことだ。
 ヤル時はヤルのだ、ダノゥの右脳と左脳の可能。

 古今東西、老若男女、ダノゥは存在する。むかし話の三年寝太郎も、なまけ者とさげすまれた一人だ。「三年ダノゥ」の底力とメリハリの話だ。
 インドの山奥で座りつづける、長い白ひげのオジさんだって、「修行風ダノゥキリ」と言えなくもない。

 そんなことを考えていると、役場のKがやってきた。
 アカギの新芽から降ってくる木もれ日を見上げながら、ステージにごろんところがって、彼はぷほおうと大きな息を吐いた。
 世間に少し遠慮するような、少しつっぱねるような、ふがいない自分に対するため息のような、イイ感じのダノゥ呼吸法だ。

 ぼくはこの空間をダノゥ舞台と呼ぶことにした。
 きび酢工場で働く青年がやってきて、ネコのように背のびして大の字になった。「夕ぐれダノゥ」が用意した舞台の上で、「午後のひとときダノゥ」たちが幸せな明日をゆめ見ている。

 広辞苑を引いてみておどろいた。「惰農、なまけ百姓のこと」とある。使われなくなった日本語が、島ではビミョーに形を変えて生きている。

 繁華街のナントカ族は尽きてもダノゥは尽きない。
 石油資源が尽き、会社が尽き、経済が尽き、アレやコレやは尽きる。
 しかし、沈む夕陽のせつなさとかすむ水平線のいとしさがつづく限り、ダノゥと木もれ日は尽きない。
 黒潮のどまん中で千年の風を浴びながら、善良な島人は尚以て木かげに抱かれる。いわんやダノゥをや。

---引用ここまで---


Photo:今帰仁村の一風景
 ←濱田耕作

 ネットをウロウロしていたら、濱田耕作という人の著した「沖繩の旅」という文章を発見。
 1932(昭和7)年に書かれた沖縄紀行で、たいへんに貴重。

 内容はというと、那覇の波上宮と護國寺、「ようどれ」の王陵、圓覺寺と崇元寺、糸滿の漁村、眞玉橋・琉球劇、中城々址、今歸仁城と勾玉、恩納の臼太鼓踊、辻遊廓の瞥見、識名園・沖繩の別れなど、全21節。
 古きよき沖縄を垣間見ることができ、ちょっと感動。処々に挿絵が施されていたりして、読み進めるのにまったく苦痛はありません。

 濱田耕作という人物についてWikipediaで調べてみると、浜田青陵(はまだ せいりょう)という別称をもち、1881~1938年の人生、考古学者で京都大学名誉教授。「日本近代考古学の父」と呼ばれたのだそう。
 興味のある方は、「青空文庫」のホームページで読んでみてはいかがでしょうか。

 著作権フリーのようですので、ここにその1節を掲載します。


・・・・・「辻遊廓の瞥見」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 歸途は海沿ひの街道を嘉手納に出で、始めて輕便鐵道の列車の走るのを見た。
 街道筋には廣い道幅のある村落があり、又大きな松の並木が續いて居る中を、時々すれ違ふ自動車のヘッドライトに、假睡に落ちようとする眼を醒させながら、那覇の町へ這入つたのは午後七時過ぎ、二日ぶりに電車の走るのを見るのも、流石に都らしく懷かしい思ひがした。
 南は糸滿から南山城、北に名護運天から北山城をも訪ね得た私は、これで先づ/\琉球一見の目的を達したのを喜んだが、宿まで送り届けて下さつた小竹君は、イヤ未だ一つ重要な見物場處が殘つてゐる。それは即ち有名な辻遊廓である。御疲れでなくば後から御案内致しませうとの事に、如何にも那覇に到著以來、毎々聞かされた此の遊廓を瞥見しなければ、何だか濟まぬ氣がしたので、夕食後○君の同道を煩はすことに決心した。

 辻の遊廓の起原は古く、寛文十二年(康熙十一年)方々に散ばつて居つた尾類(ズリ)、即ち女郎をこゝに集めたのに始まるのであるが、明治四十一年仲島渡地の娼家をも併せてから、益々繁昌して今日に至つたと言ふ事である。
 那覇の他の民家とは違つて、青樓は多く二階屋であるが、固より大した大厦高樓ではない。此一廓では夜の九時頃は未だホンの宵の口であらうが、それでも嫖客の往來で大分賑つてゐる。板敷の廊下に續いた玄關には、どの家にも二三の女が立ち現はれてゐるが、強ひて客を引ぱつてゐるのは餘り見受けなかつた。
 否、初現の客がウカ/\這入つてでも行かうものなら、「あちやめんそーり」(明日御出で候へ)と體よく斷られるとの事で、數年前我がS・K君は哀れ其の運命を負はれたと聞いた。

 私は○君の案内があるので、「竹の家」とか言ふ家に上り、大いに(?)歡迎せられたのは有難い仕合せであつた。
 女連は別々の部屋を持つて居り、内部は美しく飾つてあり、夜具棚の中にあるキレイな蒲團まで善く見える處などは、丁度朝鮮平壤で見た妓生の部屋と同じであつた。
 私達は階上の大きな座敷に請ぜられると、○君舊知の妓鶴(チル)さんが出て來て泡盛の杯を酌み、蜜柑等をむいて呉れる。別に食物等を多く出すのではなく、その代り鶴さんの朋輩の女達が、三四人入れ代り立ち代り這入つて來て接待する。

 私達は鶴さんに踊りを所望すると、他の老妓の蛇皮線に合せて、彼女は例の紺ガスリ、前結びの帶、櫛髮風の姿で、いろ/\の踊を舞ふ。其の手振り足振りの優しさは、此間劇場で見たのとは又違つた御座敷のしめやかさが漂ふ。

 私の短い沖繩の旅も今宵限り、南島の情緒溢れる此の島に、又何時訪ね來ることが出來ようかと思へば、可憐な島の女の舞踊に、しみ/″\と名殘が惜まれるではないか。
 僅かばかりの纏頭にも、彼女達は感謝を捧げて、一時間ばかりの後私達は鶴さんの握手に送られて寶來館へ無事歸り著いた。

 辻の遊廓は所謂遊廓の目的の外に、實はカフエー、レストラン、サロンなどの各種の設備としての意義をも具へてゐる處が面白い。將官教員などの宴會も以前は多く此處で開かれ、甚しきは婦人會さへ催されたことがあると言ふ。蓋し最も輕便安値であり、而かも最も朗かな氣分を與へるからであらう。
 一方から言へば各種の社交機關が、未だ分化しない状態にあると言つても宜いが、同時に又女連は女給であり、藝妓であり、又娼妓である凡ての性質を保存してゐる處に善い點がある。
 從つて此の遊廓に出入することは、必ずしも士君子の排斥を買ふことでないとも聞いたが、歸洛後伊波君の『沖繩女性史』を拜見すると、斯の如きは明治維新後、内地から獨身者の縣官などが來て、自から馴致した惡風であると書いてあつたので恐入つてしまつたが、それにしても彼等は朝鮮の妓生と共に、昔の白拍子的の遺風を傳へてゐる、現代に於ける可憐なる一つの存在である。
 之を呼ぶに尾類(ズリ)の文字を以てするのは、如何にも殘酷な氣持がすると思ふのは私ばかりではあるまい。
 「惣慶漢那(すーきかんなー)」という沖縄民謡に、ヤマモモの産地からモモを売りにくる娘たちのことがうたわれています。

  ♪ 山内諸見里の 桃売アン小やいびしが
    山桃小や買うみそうらに
         汝が山桃小や 青さぬ食まらぬ
         我ん白桃小 買うみそうれ

 山内、諸見里の桃売り娘でございますが、山桃を買いませんか? いやいや、お前の山桃は青くて食べられない。私の白桃を買ってください――といった歌意です。
 今では失われてしまったそんな様子が、古波蔵保好著の「料理沖縄物語」(前出)に載っていましたので、長くなりますが、その風情を味わってみましょう。

-------(以下、引用)----------------------------------------------

 春の町並みに風情を添えるのは、楊梅(やまもも)売りの乙女だった。
 楊梅を、沖縄の人は単にモモという。第二次大戦で沖縄が戦場となるまでは、沖縄島の中部に当る越来(ごえく)の山内(やまち)、諸見里(むるんざとぅ)というところに、楊梅の樹林があって、そこを「モモ山」と呼び、産地として有名だったのである。
 戦後の沖縄島では、昔と変わってないところを見つけるのが至難のことだ。戦後間もなく、東京に住むわたしは、アメリカ軍に統治されている故郷のことを、島からきた人に聞く時、コザというまるで知らない地名がよく現れるので、いったいどこにあるのか、と尋ねたら、「モモ山」のあったあたりと思えばいい、と教えられ、アッケにとられたものである。畑として使えないような原野が左右にひろがる田舎道をいくと、「モモ山」があった。その人家さえきわめて少なかったところが、アメリカ軍基地に近いため、みるみる都市になったのだからオドロキのほかない。
 つまりコザという街が現れて、「モモ山」は跡形もなくなったのである。したがって楊梅も今はなく、モモ売り娘は、芝居にしか現れない伝説的存在となった。

 果実としての楊梅は、必ずしもおいしいといえない。思いだすと陰暦三月に入ったころ、中学生の好奇心から、「モモ山」はどんなところか、となんとなく行ってみたくなり、那覇から嘉手納まで通じているオモチャのような軽便鉄道に乗ったのである。降りたのは大山(うやま)という駅で、そぼ降る雨に濡れながら原野のつづく道を歩いてたどりつくと、小粒の赤い実が葉の間に群がっていた。その様、まことに美しかったといえ、わざわざ見にきているわたし自身が、食べておいしい実だと思っていなかったのである。
 そろそろ暑くなるころに熟してくる楊梅は、大きい実でもパチンコの玉くらい。赤い果肉が浅くタネを包む形になっており、口に入れて果肉を味わうと、タネを吐きださなければならない。
 食べられる果肉のあまりの少なさが、むしろじれったくて、おまけによく熱して赤黒くなっている実には甘さがあるものの、たいていは酸味がまさっていた。

 首里や那覇の街をまわって売り歩くのは、うら若い娘で、彼女たちの姿に風憎があったのである。
「モモ山」のある山内、諸見里の娘たちが売りにくるのかと思っていたら、そうではなくて、彼女たちは、大山、真志喜(ましき)のネエさんたちだったという話だ。
 あのころの農村乙女は、まだ服装を当世風に改めていない。背中に垂らせばヒザ下までの長い髪を、頭のてっペんよりややうしろ下がりに結い、「じいふぁあ」というかんざしをうしろから前へ通す。そういうヘアスタイルに、裾短の芭蕉布を着て、細い帯は前結びである。
 竹編みの大きな籠を持って、彼女たちが家を出るのは、夜の明けきらないうちだった。そしてまず「モモ山」へいって、籠いっぱいの楊梅を仕入れる。籠の内側に芭蕉の葉を敷き、仕入れた楊梅を詰めると、同じ芭蕉の葉をかぶせ、頭にのせて首里・那覇へ急ぐ。
 当時は道といっても、幅がせまくて草がはびこっていた。しかも暗くて足もとが見えにくい。寒い時季はすでに過ぎて、ハブという毒ヘビが動きだしている。ハダシの彼女たちは、足もとにヒヤリとするものを感じただろう。
 だから彼女たちは、細竹でこしらえた長いムチを必ず持っていた。うっかり草むらのハブを踏んだりすると、たいへんである。危なっかしい道筋にさしかかると、細竹で草むらを払うなどの用心が必要であった。

 こうして首里・那覇の街まで、三里余りの道を歩いていくうちに夜が明け、街にたどりつくころには、家々の戸があいている。
 呼び売る声は若々しくて、お腹のあたりはくびれて締まり、腰の線に弾力を感じさせる彼女たちの裾から見える脚にも、アリアリと妙齢であることが現れていた。
 そういうからだにスガスガしい芭蕉布、おまけに髪のツヤツヤとした黒さが加わって、顔形などはどうでもいいと思うほどの魅力があったのである。
 わたしの母も、彼女たちの声を聞くと、門の内に呼び入れて、五合ほどの楊梅を買う。米などをはかる場合の一合枡を彼女たちは使っていて、この枡に楊梅を詰めて軽く盛りあげる手際がいい。なれている女は、盛りあげたと見せて、実は中がスキ間だらけだったりのうまさ。
 だが、なにせ情緒のある売り子なので、ちっとも憎らしくない。呼びこんで楊梅をはかってもらいながら、誘ってみようとする男もいたのではなかろうか。

 さしてうまいと思わない小粒の実だのに、目の前にあれば、食べるわけで、季節がくるごとに、わたしたちはよく口に入れた。
 こういう木の実でも、街の人たちが買って口を満足させたのは、ほかに果物が少ないせいではなかっただろうか、と今にしてわたしは思うのである。