これまでに、「街を泳ぐ、海を歩く カルカッタ、沖縄、イスタンブール」(1998)、「美麗島まで」(2002)、「サウス・トゥ・サウス」(2004)、「まれびとたちの沖縄」(2009)、「わたぶんぶん わたしの「料理沖縄物語」」(2010)を読んできている、好きなノンフィクション作家の一人、与那原恵。
 今回は、沖縄の戦後復興に隠された熱いドラマです。

 大正末期から昭和初期、大々的な琉球芸術調査を行い、貴重かつ膨大な資料を残した研究者・鎌倉芳太郎。
 彼がテーマとしたのは、芸術、文化、民俗、宗教、言語など、その幅広さでも、他に例を見ない存在だ。81冊におよぶノート、2,500点の写真資料、古文書文献、紅型の型紙……。
 稀代の記録者の仕事を紹介する本邦初の評伝であるとともに、彼に琉球文化の扉を開いた人々の姿、そしてそれが現代に繋がるまでの熱きドラマを描く。
 第二回河合隼雄学芸賞、第十四回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞をダブル受賞。
 ――というもの。

 ウェブ上に、敬愛してやまない民俗学者・赤坂憲雄による日本経済新聞の格調高い書評(2013年8月11日付朝刊)がありましたので、以下に引用してインプレッションに代えます。

首里城への坂道 与那原恵著 琉球の痕跡をもとめる旅
 匂いやかな風が吹き抜けてゆく。たとえばそれは、沖縄でも南島でもなく、琉球の風でなければいけない。その風に包まれて、ことばが、うたが、風景が起ちあがってくる。これはノンフィクションであるよりは、琉球の痕跡をもとめての旅が産み落とした一篇の物語であるのかもしれない。

 主人公はとりあえず、鎌倉芳太郎というヤマト出身の研究者である。「琉球文化」のすべてにわたる最高のフィールドワーカーであるが、この人ほどに「琉球と対話し、観察し、記録した人間」はいない、と著者はいう。その沖縄本島から宮古・八重山・奄美の島々へいたるフィールドワークの旅は、大正10年代から昭和のはじめにおこなわれている。いまだ琉球の影がそこかしこに残る時代であった。「沖縄学」の勃興期でもあった。それが鎌倉に思いがけぬ大きな役割を与えることになる。ここで手探りに試みられていたのは、そうした鎌倉の再評価といっていい。

 とはいえ、ここに描きだされているのは、たんに鎌倉ひとりの足跡ではない。むしろ、同時代を生きた数多くの沖縄の人々の群像である。その描写はいずれも簡潔でありながら、鮮やかな臨場感をともなっている。ここに示された肖像画のいくつかは、確実に、わたしのなかに忘れがたい印象を留めている。たとえば、末吉麦門冬や、座間味ツルといった人たちだ。

 それにしても、ほんとうの主人公は首里城なのかもしれない、とも思う。鎌倉は若き日に、首里城を取り壊しの危機から救った。そして、死後には、戦乱に焼失した首里城の復元にたいして決定的な資料をもたらした。鎌倉芳太郎がいま再発見されようとしているとしたら、それは首里城がまさに「琉球文化」の象徴であるからだ。それはやがて、将来の沖縄の人々のアイデンティティの拠りどころになるのかもしれない。

 晩年の鎌倉は、ヤマトの人間と沖縄人のあいだに揺れながら、ついに「本土からの旅人」という自己認識に落ち着いていった。それでいい。著者はだから、「だれよりも深く、ひろく、琉球と対話をした旅人」というオマージュを捧げたのである。

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☆「南海の歌と民俗」(ひるぎ社おきなわ文庫)から

 沖縄の民謡界は昭和の初期より創作民謡が目的意識的に追求され、大衆と共に歩んできた。当時の民謡は比較的民謡の「こころ」が大切にされ、南島沖縄の風俗や社会事象、人々の思いが深くこめられていた。ところが、昭和40年ごろを境に沖縄の民謡ほ新しい局面に入った。それは職業的歌手の大量登場によってである。ここで断っておかねはならないのは、職業的民謡歌手の存在を否定するものではない。むしろ洗練された芸の極致は価値の高い芸術と思うが、問題は林立している民謡研究所や歌手の民謡に対する姿勢をいっているのである。
 そして、マスコミ主導の風潮は、民謡の明日に多くの波紋を巻きおこしている。民謡の背景を無視した派手な衣裳、賑やかな伴奏楽器と舞台、ウチナーグチ(琉球方言)からヤマトグチ(共通語)への変化にみられる流行歌的民謡、コンクール一辺倒の画一的節まわし、物まね。一体、そういう形でこれからの民謡はいいのだろうか。民謡というからには当然、郷土性が香るべきで、その土地特有のことばが基礎となり、南鳥の自然的社会的特性が生かされなければいけない。個々の民謡は、その地域の文化と切り離しては考えられないのだ。だからこそ、郷土性を失った民謡は民謡ではなく、流行歌でしかないといわれるゆえんである。
 われわれが民謡を考えるとき、地域に下りてその地の風土と人々の暮らしその関連で考えようと訴えているのは、そこに民謡の原点があるからにほかならない。そして、遥か遠い祖先が歌ってきた古謡までさかのぼって考えてみようというのも、過去、現在、未来へ向う歌謡史の流れの中で、しっかり考えたいからである。
 現代に生きるわれわれは今一度「うた」の原点に戻って、この地球上で歌をほんとうに生活の一部として大切にしている社会があることに注目し、考えてみることもいいことであろう。これらの社会はアジアやアフリカの発展途上国であるが、われわれはそれらの地域からむしろ原点的内容を鋭く突きつけられているといえよう。
 かつて、沖縄の農村社会もそうであったように、今日のアジア・アフリカの地域では「生きること」と「うたを歌う」という行為は同じ意味をもっていたようだ。だが、われわれは歴史の歯車を逆に回すことはできない。歌が生活と密着していた昔へ回帰できないのだ。そうではあっても、われわれは民謡の真の姿を追体験する作業は可能である。そこに民謡研究の意義もある。
 沖縄民謡の明日を期待するならば、歌が人々の生活と密着していた、その生態を知り、自然発生的口承民謡をどれだけ深く理解するかにかかっている。そして、それをバネに新しい時代にあって、沖縄の人々の気持と南島特有のリズムやことばで、民衆に力づよい息吹を与える創作の世界が求められているといえよう。



 「すべては“軍命による集団自決”から始まった」と副題が付く、曽野綾子の「ある神話の背景」が刊行されてから40年後の顛末記といった位置づけの書です。

 「はじめは傷を癒そうとする小さな「方便」だった。やがて「暴走する正義」として、異論を許さない全体主義圧力に転化していく。
 既得権を守るはずの歴史見直し拒否は、「独立を問う住民投票」という情念に姿を変えた。
 前任者を追い落とす政局のために、排日気運を利用した政治家。それに煽られて、引き返せない一線をこえてしまった沖縄政治。
 激化する国際紛争の中で、島は新たな悲劇に向かう――」
 ――との説明がなされています。でもこれでは、なんだか正直言ってよくワカラナイですよね。

 そもそも表題の「強欲チャンプル」ってどういうことを表しているのだろう。ここだけで使われる造語ではないかと思いますが、かなり胡散臭いアジテーションが潜んでいるように感じられます。
 表題というのはそれだけで全体を端的に表現する大事なパーツなのだから、意味の説明が文章のどこかでなされないのなら入れないほうがいいと思います。

 ところで、著者の大高未貴はウィキペディアによれば、1969年東京都生まれ、フェリス女学院大卒のフリージャーナリスト。海外旅行会社に就職し、入社半年後にトルコ、イスラエル研修旅行でパレスチナ問題に遭遇し、ジャーナリストを志し退社。転職した大手広告会社系列シンクタンク勤務時代にミス日本に応募し、1993年度ミス日本に。同年イスラエル、トルコの国際親善の仕事をこなし、その後自費でパレスチナガザ地区を取材。その後、インドでダライ・ラマ14世などへのインタビューが成功したことがキッカケとなり、95年にジャーナリストデビュー。
 2004年の日本文化チャンネル桜開局以降、番組のキャスターを務める。慰安婦問題では国内外で取材を行い、現在に至る――という方です。
 個人的な感想を言えば、美人は嫌いじゃないけれども、美を利用して世渡りをしているような印象があり、あまりまっとうな経歴とは言えないような気がします。(言い方キツイかな)

 その論調は、「序章」で述べている次のような文章に、方向性が示唆的に表現されています。

 ・・・沖縄を守りたかった戦没者たちは、その思いが正当に理解、評価されず、暗黒の闇に沈んでいるとはいえまいか。さらに今、戦没者たちを冒涜するような「沖縄独立」などという、どこかの国の工作にのせられたかのような動きが加速している。
 私はかつて、沖縄集団自決の軍命令問題で、「死ぬな!生きろ!」と軍人さんに命令されたと証言する、数人の人達に現地で会ったことがある。
 一方的に旧軍を指弾する沖縄の異様な同調圧力の中で、「命がけで島を守ってくれた軍人さんに、濡れ衣を着せたままでは死ぬに死ねない」と、批判や嫌がらせを覚悟でカミングアウトしてくれた人もいた。援護金を貰うために村ぐるみ、県ぐるみで集団自決の軍命令をでっち上げたのではないか、さらにそれを正当化するため、「日本軍が沖縄にいたから悲劇が起こった」という「広義の強制」説が、あたかも正論であるかのように島の言論空間を支配しているのではないか、という疑問を多くの歴史家や研究者が指摘している。そうだとしても、当初は許容される程度の詐術だったかもしれないが、ある国の工作に利用されるままの現状を知るにつけ、あの沖縄戦で亡くなった人達の怨嗟の声が聞こえてくる気がするのは私だけではあるまい。

 この文章の中には引っかかるところが多くあります。
 多数の軍人が、沖縄県民に「死ぬな!生きろ!」と言ってくれたなら、あのような悲劇は起こらなかったわけだし、集団自決の軍命令がでっち上げられたものだとの考えについてはまだ我慢できるとしても、それが「ある国の工作」によるものだというに及べば、そこにはあまりにも論理の飛躍があるとしか言わざるを得ないと思います。

 沖縄をめぐる事象を寄せ集めて強引につなげてみたら、もしかしたらこんなことも成り立つのではないですか?という無脈絡さを感じます。もしかしたら、それが「強欲チャンプル」(強引なまぜこぜ)なのでしょうか。
 そのあたりは、さまざまな考え方があろうと思いますので、読まれた方々それぞれの立場で判断すればいいのではないでしょうか。



 単行又吉本の11冊目として2003年に発刊されたもの。沖縄の「巡査」モノといえば池宮城積宝の「奥間巡査」が随一ですが、これはどうなのだろうなと思って購入しました。
 それを2015年3月に買い求め、2017年3月に読み終え、同年9月になってからそのインプレッションをまとめようとしているわけです。
 しかし、読んでから半年も経ってしまうと、読後の印象なんてすっかり失われてしまい、どーゆーあらすじなんだっけ?というところから振り返らなければならなくなります。
 うーむ、かといってもう1回はじめから読むというのもなんだし。こういうときはふつうネットを漁ってみるのが効果的なのですが、困ったことにあまりいい内容のものがヒットしないんだよなあ。
 ――という状態で書いています。嗤ってくださって結構ですよ。
 でまあ、ネット通販によく出ているこの本の紹介を引用。

 「巧一郎は、なぜ「首」を無くしたのか。本当に同僚を殺したのだろうか。
 克馬と早紀の兄妹は祖父の真実を求め小舟(サバニ)で謝名元島から垂下国へと漕ぎだした。
 〈首狩りの風習〉を追究する芥川賞作家の力作。
 四国の半分ほどの大きさの垂下(すいか)国は、謝名元(しゃなもと)島の西南160キロにある。
 元々の名称はジャガル島だが、阿族が両手に下げていた生首を戦前日本人が西瓜と見間違え、「西瓜島」と名付けたのが、いつのまにか「垂下島」に転じたと言われている。――(本文より)」

 ・・・。つまりは、沖縄をモチーフにして書き続けてきたこの芥川賞作家は、ミステリーやはたまたファンタジーの分野に自らの新天地を求めたのでしょうか?!

 少しシェイクダウンすると、沖縄の謝名元島から160km離れたところに垂下国という国があり、そこには首狩りの習慣がある阿族が治めていた。そこで以前巡査をしていた功一朗おじいは同僚を殺害し、阿族に首を切られて死んだのだといいます。
 そこで、孫である克馬と早紀は、滝おばあの骨を功一朗おじいのもとへ埋めてあげようと考え、あわせておじいが同僚を殺したという真相を確かめるために、垂下国に向かって舟を漕ぎ出す、というもの。
 そのような非現実的なほうに話が行ってしまうと、ハマれば面白いのだけれども、そうならない場合はすんなりと物語にのめり込んでいけず、読後にストレスが残るということになります。
 モデルは台湾なのかな。しかし沖縄の周辺にはそんな国はなく、ましてや首狩りなんて。
 ありえないことをさも事実らしく話されると、自分の場合、冗談だろと思った瞬間にはその先の興味は失うことがあります。なんだかこの作品もそういうカテゴリーに入っちゃうのかなぁ。
 又吉作品の非現実性は、沖縄の風習や豚などの動物ぐらいに留めておいたほうが、神秘性も感じられていいんじゃないのかな。



 沖縄を初めて訪れたのが1993年。それ以来50回近く沖縄に通い続けてきましたが、率直な感想を言うと、沖縄は変わりました。
 初訪時の沖縄は、国際通りには米軍払下げ品の店や貴金属店などがたくさんあり、普通のお土産店一色の今とは違ってアメリカ世の名残りが感じられました。旧国道329号線沿いの古波蔵あたりの道路は狭く、両側には古い建物が水タンクを備えた姿でびっしりと立ち並び、異国の風情があったものです。那覇空港は新しくなる前の黄緑色の小さな建物だったし、首里城は復元公開されたばかりでした。
 そして内地の者から見て圧倒的だったのは、沖縄の文化です。当時は沖縄ポップカルチャーが波に乗っていた頃で、りんけんバンドやネーネーズなどが大活躍。それらの背景を探ってみると、奥の深い琉球民謡の系譜があり、琉球舞踊や歌劇・芝居があり、夜ともなればあちこちで琉球舞踊が見られる店や民謡酒場が店を開き・・・という具合なものでした。
 いまよりもずっとウチナーグチを話す人が多く、那覇を少し離れれば赤瓦屋根の建物が目立つような時代でした。
 1998年の秋に目の当たりにした大田昌秀と稲嶺恵一が戦った知事選などは、振り返ってみればあれが大事なターニングポイントだったのかもしれません。

 ところが今の沖縄は、ほかの地方都市と同じような表情を持つ町並みへと変わってきました。女性たちのスタイルや顔立ちも西洋化してすらりとしており、話す言葉も、立ち居振る舞いも、都会的です。
 毎日といっていいほどどこかで開かれていた芸能公演は激減し、てびちや汁物が食べられる大盛り激安の大衆食堂もあまり見かけなくなったような気がします。

 これから沖縄は、どこに向かって進んでいくのだろうなぁ。
 そういう憂いにも似た気持ちをずっと抱えていましたが、同じようなことを思っている移住者がいました。大ファンである仲村清司です。

 大阪生まれの沖縄人二世である著者は、1996年に那覇に移住します。当時は「沖縄ブーム」の走りの頃であり、その後NHKの連続テレビ小説「ちゅらさん」の影響もあり2000~05年頃をピークに、沖縄は「有史以来」といわれる空前のブームを巻き起こしました。
 一方、その裏側では、95年に起きた米兵による少女暴行事件をきっかけに、日米地位協定の見直しを含めて反基地運動が高まりをみせます。そして96年、普天間基地の返還が発表され、辺野古移設へと基地問題が動いていきます。
 そしてその後の20年の間に、沖縄で何が起きたのか――。
 「沖縄ブーム」「沖縄問題」と軌を一にし、変質していく文化や風土などに触れ続けてきた著者が、<遺言>として「中期決算的な自分の心情と素顔の沖縄」を綴ります。

 プロローグに「1996年の沖縄、2016年の沖縄」を前置し、「戸惑い―観光立県・沖縄の現在」、「失われゆく風景―故郷、那覇、農連市場」、「溝―移住者の揺らぎ」、「葛藤―まとまる沖縄とまとまらない沖縄」、「民意―沖縄の真価が問われる時代」、「信仰―消える聖域と畏れ」の6章立て。最後に「エピローグ―私たちは<矛盾>とどう向き合うのか」。

 沖縄を愛する著者は、米軍基地問題をめぐって沖縄と本土の関係が悪化していく中で、著者が探し求めてきた沖縄社会の基層がほかならない沖縄人の手によって切り崩されていく様に、「疲れてしまった」といいます。現実の沖縄社会の急激な変質に失意を覚えているのでしょう。それは沖縄への報われなかった「片想い」、でしょうか。
 すっかり変わり果てた沖縄に残す「遺言」だと著者は言いますが、著者の変わらぬ沖縄への愛情がそこまで言わしめていることは論を待ちません。



 「ひめゆりの塔」から「ウルトラマン」、「沖縄やくざ戦争」まで。スクリーンに立ちあらわれる沖縄を手がかりに、戦後日本、現代を照射する社会批評。(コシマキから)
 ――との触れ込みの、興味深い沖縄映画論。
 ぱらぱらとページを繰ってみると、当時のポスターや映画のワンシーンなど貴重な図版が多数掲載されていて、興味はさらに深まっていきます。

 著者は、1951年北海道網走市生まれ。法政大学国際文化学部教授。80年に「異様なるものをめぐって-徒然草論」で群像新人文学賞を受賞し、文芸評論を開始。
 古典文学に関する評論で唯一の群像新人賞受賞者で、古典と近代をともに論じる文芸評論家として出発したものの、次第に朝鮮・韓国文学や文化にも手を広げ、左翼的立場をとることから各界人と論争し、批判を受けることも。
 1993年から17年間にわたって毎月、毎日新聞に文芸時評を連載し、これは最長記録になっているそうです。

 当書については、映画監督の當間早志が琉球新報に書評を寄せていたので、それを以下に引用します。

 本書のタイトルに「沖縄映画論」とあるが、批評性は薄く、著者の「沖縄映画」に対する思いを綴ったエッセーに近い内容だ。資料の精査と取材の踏み込みが少し足りない感じが否めない。事実違いや過剰な解釈がいくつか見られるのだ。
 例えば、宮平雅風監督の『新説・運玉義留』について、「戦前」に「琉球芝居の実演」をそのまま撮った「ビデオ作品」と紹介しているが、大間違い。1950年代に作られた劇映画である。そもそも、戦前にビデオ作品があるワケがない。著者はその後も「ウンタマギルー」の響きから「たまげる」を連想して独自の「運玉義留」論を展開させているが、僕にはそれこそ“たまげる”ほど滑稽に思えた。
 沖縄の空手青年役でデビューした高倉健の記述に〈本土復帰前に、沖縄ロケを初めて実現した劇映画は……「網走番外地 南国の対決」だったことは、面白い偶然〉とある。これも間違い。「~南国の対決」より7年も前の59年に「海流」という沖縄ロケの松竹映画がある。他にも「八月十五夜の茶屋」に登場する「サキニ」の名が「サキ兄(ニィ)」からきたと連想したり、「沖縄やくざ戦争」の国頭も「国の神」として解釈したりと、安易な推論が随所に。
 僕の作品「パイナップル・ツアーズ」も、舞台である架空の島が「具良間島」であることから、川島雄三の沖縄関連映画「グラマ島の誘惑」に対するリスペクトが示されている、と解釈しているが、その島の名付け親である僕から言わせると、ほぼ偶然だ。確かに「グラマ島~」から名前を頂戴したが、当時その作品は未見で、内容が沖縄と関係あることも知らなかった。
 …と、揚げ足を取るようなことばかり並べてきたが、どうも憎めない。筆者の「沖縄映画」に宛てたラブレターとして受けとれるのだ。前述の問題箇所も、思いの丈を綴る勢いや焦りから書いてしまったのではないか。持論を押しつける文体ではないので嫌みもない。慈しみさえ感じることもある。オススメです!

 自分は、ところどころ解釈が沖縄を知らないヤマトンチュ風なところがあるなぁとは感じましたが、それ以外は格別違和感なく読んでしまったところ。
 苦にならなかったわけはやはり、當間早志が言うとおり、この著書が「筆者が「沖縄映画」に宛てたラブレター」だから、というのが大きいからではないかと思っています。